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'''張 維璽'''(ちょう いじ)は[[中華民国]]の軍人。[[北京政府]]、[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]に属し、[[馮玉祥]]配下の「'''十三太保'''」<ref>張維璽に加え、[[孫良誠]]、[[韓復ク|韓復榘]]、[[石友三]]、[[過之綱]]、[[劉汝明]]、[[聞承烈]]、[[佟麟閣]]、[[孫連仲]]、[[韓多峰]]、[[程希賢]]、[[葛金章]]、[[趙席聘]]の13人を指す。ただし趙席聘の代わりに[[韓占元]]が列せられる場合もある。</ref>の1人と称される。後に[[汪兆銘]](汪精衛)の[[汪兆銘政権|南京国民政府]]に参加したとも言われるが、異説も存在する。[[字]]は'''楚玉'''<ref name=Xu/>。 |
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== 事績 == |
== 事績 == |
2020年8月4日 (火) 03:16時点における版
張維璽 | |
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プロフィール | |
出生: | 1889年(清光緒15年)[1] |
死去: |
1944年(民国33年) 中華民国 |
出身地: | 清山東省東昌府館陶県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張維璽 |
簡体字: | 张维玺 |
拼音: | Zhāng Wéixǐ |
ラテン字: | Chang Wei-hsi |
和名表記: | ちょう いじ |
発音転記: | ジャン ウェイシー |
張 維璽(ちょう いじ)は中華民国の軍人。北京政府、国民軍に属し、馮玉祥配下の「十三太保」[2]の1人と称される。後に汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加したとも言われるが、異説も存在する。字は楚玉[1]。
事績
東三省武備学堂で学ぶ。1911年(宣統3年)の灤州起義では、馮玉祥配下で排長をつとめた。中華民国成立後も、馮玉祥率いる第16混成旅、第11師で順調に昇進している。1924年(民国13年)には旅長となった[1]。
1926年(民国15年)7月、張維璽は西北軍第13師師長となる。同年12月には第13軍軍長、1927年(民国16年)には第13路総司令、1928年(民国17年)には第6方面軍総指揮と歴任した。1930年(民国19年)の中原大戦では、馮玉祥配下で第7路軍総指揮兼第8軍軍長、南路総司令などを務めた。敗北後、張は陸軍大学特別班で学習するなどしたが、総じて不遇を託つこととなる[1]。
1943年(民国32年)、国民軍以来の僚友孫良誠とともに、南京国民政府(汪兆銘政権)に投降した。張維璽は開封綏靖公署副主任、第2方面軍副総司令として孫を補佐する。しかし、後にある友人から叱責を受けたために、張は羞恥を覚え、わずか3ヶ月で辞任したという[1]。ただし、張は父・妻を日本側に拘束され、脅迫を受けながらも、これら職位への就任はあくまで拒んだとの説もある[3]。
1944年(民国33年)[4]、病没。享年56。なお、死亡地点と死因も説が別れており、汪兆銘政権に投降したとの説では「天津で病死」[1]、拒否したとの説では「江蘇省泰州で病死(日本側による毒殺説あり)」となっている[3]。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 李恵蘭・薛鳳「張維璽熱心事前」『今晩報』2014年3月1日、13頁。