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2020年8月3日 (月) 11:54時点における版
姚作賓 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1893年 |
死去: |
1951年 中国山東省青島市 |
出身地: | 清四川省保寧府南部県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 姚作賓 |
簡体字: | 姚作宾 |
拼音: | Yáo Zuòbīn |
ラテン字: | Yao Tso-pin |
和名表記: | よう さくひん |
発音転記: | ヤオ ズォビン |
姚 作賓(よう さくひん、繁体字: 姚作賓; 簡体字: 姚作宾; 繁体字: 姚作賓; 拼音: Yáo Zuòbīn; ウェード式: Yao Tso-pin)は、中華民国の政治家。
事績
民国初期の活動
若年時代に日本へ留学し、明治大学政治経済科を卒業。辛亥革命、二次革命に革命派として参加し、護国戦争では山東省方面で航空隊員として活動した。五四運動に際しては、中華民国学生連合会総局理事長を務め、1921年(民国11年)にはロシア入りしてロシア共産党幹部と対談・議論したが、この時に姚作賓は共産主義の矛盾を感じてこれを放棄した[1]。
帰国後の1922年(民国11年)に姚作賓は青島接収委員長代理となり、後に膠澳商埠督弁公署交渉課長に転じている。まもなく実業界に転じ、畜産・鉱山事業を経営した。1936年(民国25年)3月、冀察政務委員会交通部組長として正解に復帰し、日中航空協定締結に尽力、更に恵通航空公司董事となっている[2]。
親日政府での活動
日本軍が青島を占領した後の1938年(民国27年)1月17日、姚作賓は青島治安維持会の9人の委員の1人となる。同年11月2日、青島治安維持会学務委员会が成立すると、姚が委員長を務め、翌月10日には青島興亜倶楽部副会長も兼任している[3]。1939年(民国27年)1月10日、親日の青島特別市公署が成立すると同市社会局局長に任命され[4]、同年5月10日には青島特別市工商連絡委員会委員長も兼任している。1943年(民国32年)3月18日、姚は市長に昇進し、汪兆銘政権崩壊まで同職に在った[3][4]。
1945年(民国34年)10月11日、姚作賓は漢奸として国民政府に逮捕され、翌年5月に山東省高等法院青島第二分院で死刑判決を受けたが、執行はされず、1949年(民国38年)1月に改めて同法院で審理され無期懲役に減刑された[5]。その後、中国人民解放軍が進軍してきたため国民政府により釈放されたが、青島が陥落した直後の6月5日に中国共産党に再逮捕されている。中華人民共和国建国後に青島中級人民法院で死刑判決を受け、1951年に執行された。享年59[6]。
注
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、195頁。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、195-196頁。
- ^ a b 「青島市志 大事記 第六篇 日本第二次侵占時期(1938.1~1945.9)」[リンク切れ]「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
- ^ a b 郭主編(1990)、1892頁。
- ^ 「青島市志 大事記 第七篇 南京国民政府第二次統治時期(1945.9~1949.6)」[リンク切れ]「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
- ^ 「青島市志 大事記 第八篇 青島解放和基本完成社会主義改造時期(1949.6~1956.9)」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
参考文献
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 青島市志 大事記「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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