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姚作賓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姚作賓
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1893年
死去: 1951年
中華人民共和国の旗 中国山東省青島市
出身地: 清の旗 四川省保寧府南部県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 姚作賓
簡体字 姚作宾
拼音 Yáo Zuòbīn
ラテン字 Yao Tso-pin
和名表記: よう さくひん
発音転記: ヤオ ズォビン
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姚 作賓(よう さくひん、繁体字: 姚作賓; 簡体字: 姚作宾; 繁体字: 姚作賓; 拼音: Yáo Zuòbīn; ウェード式: Yao Tso-pin)は、中華民国の政治家。

事績

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民国初期の活動

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若年時代に日本へ留学し、明治大学政治経済科を卒業。辛亥革命二次革命に革命派として参加し、護国戦争では山東省方面で航空隊員として活動した。五四運動に際しては、中華民国学生連合会総局理事長を務め、1921年民国11年)にはロシア入りしてロシア共産党幹部と対談・議論したが、この時に姚作賓は共産主義の矛盾を感じてこれを放棄した[1]

帰国後の1922年(民国11年)に姚作賓は青島接収委員長代理となり、後に膠澳商埠督弁公署交渉課長に転じている。まもなく実業界に転じ、畜産・鉱山事業を経営した。1936年(民国25年)3月、冀察政務委員会交通部組長として政界に復帰し、日中航空協定締結に尽力、更に恵通航空公司董事となっている[2]

親日政府での活動

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日本軍が青島を占領した後の1938年(民国27年)1月17日、姚作賓は青島治安維持会の9人の委員の1人となる。同年11月2日、青島治安維持会学務委員会が成立すると、姚が委員長を務め、翌月10日には青島興亜倶楽部副会長も兼任している[3]1939年(民国27年)1月10日、親日の青島特別市公署(市長:趙琪)が成立し[4]、同年3月14日に姚は同公署社会局局長署理に任命された[5][6]、同年5月10日には青島特別市工商連絡委員会委員長も兼任している。1943年(民国32年)3月18日、姚は市長に昇進し、汪兆銘政権崩壊まで同職に在った[3][7]

1945年(民国34年)10月11日、姚作賓は漢奸として国民政府に逮捕され、翌年5月に山東省高等法院青島第二分院で死刑判決を受けたが、執行はされず、1949年(民国38年)1月に改めて同法院で審理され無期懲役に減刑された[8]。その後、中国人民解放軍が進軍してきたため国民政府により釈放されたが、青島が陥落した直後の6月5日に中国共産党に再逮捕されている。中華人民共和国建国後に青島中級人民法院で死刑判決を受け、1951年に執行された。享年59[9]

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  1. ^ 東亜問題調査会編(1941)、195頁。
  2. ^ 東亜問題調査会編(1941)、195-196頁。
  3. ^ a b 「青島市志 大事記 第六篇 日本第二次侵占時期(1938.1~1945.9)」[リンク切れ]「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
  4. ^ 劉ほか編(1995)、1142頁では、公署成立日を「1938年1月10日」としているが、誤り。
  5. ^ 臨時政府令、令字第349号、民国28年3月14日(『政府公報』第65号、臨時政府行政委員会情報処第四科、5頁)。
  6. ^ 郭主編(1990)、1892頁では、公署成立時の1月に局長就任としているが、誤り。
  7. ^ 郭主編(1990)、1892頁。
  8. ^ 「青島市志 大事記 第七篇 南京国民政府第二次統治時期(1945.9~1949.6)」[リンク切れ]「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
  9. ^ 「青島市志 大事記 第八篇 青島解放和基本完成社会主義改造時期(1949.6~1956.9)」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)

参考文献

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  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  • 青島市志 大事記「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
趙琪
青島特別市長
1943年3月 - 1945年8月
次代
(廃止)