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* 天正11年([[1584年|1583年]]):[[由良成繁]]の妻[[妙印尼]]、息子、[[由良国繁|国繁]]、[[長尾顕長|顕長]]を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。 |
* 天正11年([[1584年|1583年]]):[[由良成繁]]の妻[[妙印尼]]、息子、[[由良国繁|国繁]]、[[長尾顕長|顕長]]を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。 |
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*天正12年([[1584年]])に、[[越中国]]の[[佐々成政]]に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した([[末森城の戦い]])。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。 |
*天正12年([[1584年]])に、[[越中国]]の[[佐々成政]]に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した([[末森城の戦い]])。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。 |
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*天正12年([[1584年]])-天正14年([[1586年]]):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘[[立花 |
*天正12年([[1584年]])-天正14年([[1586年]]):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘[[立花誾千代|(誾千代)]]ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。 |
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* 天正13年([[1585年]]):[[人取橋の戦い]]。二階堂盛義の未亡人で[[須賀川城]]主の[[阿南姫]]、[[伊達政宗]]に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。 |
* 天正13年([[1585年]]):[[人取橋の戦い]]。二階堂盛義の未亡人で[[須賀川城]]主の[[阿南姫]]、[[伊達政宗]]に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。 |
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* 天正14年([[1586年]]):[[大友義鎮]]家臣で、[[鶴崎城]]の城主[[吉岡統増]]の母[[妙林尼]]、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城<ref name=myorin>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=DqkDbFdyjzsC&pg=RA1-PA104&dq#v=onepage&q&f=false |title=郷土教育の理論と実際|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 |
* 天正14年([[1586年]]):[[大友義鎮]]家臣で、[[鶴崎城]]の城主[[吉岡統増]]の母[[妙林尼]]、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城<ref name=myorin>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=DqkDbFdyjzsC&pg=RA1-PA104&dq#v=onepage&q&f=false |title=郷土教育の理論と実際|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 |
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* 天正18年([[1590年]]):[[小田原征伐]]。3月、妙印尼、豊臣方に与し、[[松井田城]]攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる<ref>高橋浩昭「妙印尼」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2</ref>。6月、妙印尼の孫で、[[忍城]]城主[[成田氏長]]の娘である[[甲斐姫]]、北条方として[[忍城の戦い|忍城籠城戦]]に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は[[蒲生氏郷]]の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。 |
* 天正18年([[1590年]]):[[小田原征伐]]。3月、妙印尼、豊臣方に与し、[[松井田城]]攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる<ref>高橋浩昭「妙印尼」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2</ref>。6月、妙印尼の孫で、[[忍城]]城主[[成田氏長]]の娘である[[甲斐姫]]、北条方として[[忍城の戦い|忍城籠城戦]]に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は[[蒲生氏郷]]の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。 |
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* [[慶長]]年中([[1596年]] - [[1615年]]ごろ):津軽の藤代館の女主人、[[藤代御前]]が、[[津軽為信]]に攻め込まれ戦死したと伝わる<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=01d3ngONSKUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false|title=青森県中津軽郡藤代村郷土史|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 |
* [[慶長]]年中([[1596年]] - [[1615年]]ごろ):津軽の藤代館の女主人、[[藤代御前]]が、[[津軽為信]]に攻め込まれ戦死したと伝わる<ref>{{cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=01d3ngONSKUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false|title=青森県中津軽郡藤代村郷土史|accessdate=2018-07-28}}</ref>。 |
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* 慶長5年(1600年):[[関ヶ原の戦い]]に関連する一連の合戦が勃発。7月、[[田辺城の戦い]]にて城主[[細川幽斎]]の妻[[沼田麝香]]、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ[[真田信之]]の妻[[小松姫]]が侍女らとともに武装して留守の[[沼田城]]の守備に当たる。8月、[[安濃津城の戦い]]にて[[富田信高]]の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に[[立花宗茂]]に降伏を促すため柳川に進軍した[[加藤清正]]が、宗茂の妻[[立花 |
* 慶長5年(1600年):[[関ヶ原の戦い]]に関連する一連の合戦が勃発。7月、[[田辺城の戦い]]にて城主[[細川幽斎]]の妻[[沼田麝香]]、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ[[真田信之]]の妻[[小松姫]]が侍女らとともに武装して留守の[[沼田城]]の守備に当たる。8月、[[安濃津城の戦い]]にて[[富田信高]]の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に[[立花宗茂]]に降伏を促すため柳川に進軍した[[加藤清正]]が、宗茂の妻[[立花誾千代|誾千代]]の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍。伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて誾千代の鉄砲隊が発砲したという。 |
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===江戸時代=== |
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2020年8月2日 (日) 22:21時点における版
日本における女性の合戦参加の年表では、日本の歴史における女性の戦争、合戦、戦闘への参加について時系列的に列挙する。
ここでは、軍勢の指導的立場において参加した場合から、一兵卒として参加した場合まで幅広く扱うこととする。
年表
弥生時代
- 平戸島の根獅子遺跡において、弥生時代中期に、戦に参加したとみられる女性人骨が確認され、抜歯や頭骨に鏃があることから、戦闘において統率者的立場の女長とみられる(岸俊男 『王権をめぐる戦い』 中央公論社 1986年 pp.149 - 150)。
- 『三国志』魏書東夷伝(魏志倭人伝)に、3世紀半ば、女王国である邪馬台国と男王が統治する狗奴国が交戦していたと記述される。
記紀時代
- のちの神武天皇が神武東征の際、戊午の年9月5日において、女軍(めのいくさ)を女坂に置き、11月7日に女軍を進ませ、敵軍は大兵が来たと思って、尽力して、これと交戦(『日本書紀』戊午の年、9月5日条、11月7日条)。官軍が女性部隊を用いた記述だが、神代に当たる。
- 景行天皇が肥前国巡幸時、嬢子山に土蜘蛛八十女人(大勢の女性首長)が住んでいたが、天皇に従わず抵抗したため、派兵して滅ぼした(『肥前国風土記』)。
- 仲哀天皇9年: 7月20日、神功皇后は兵をあげ、荷持田村(のとりたのふれ)の翼人・羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)にて征伐する。同25日、山門県の土蜘蛛、田油津媛を征伐。同年10月3日、三韓征伐のため朝鮮半島へ出航、新羅は戦わずして降伏[1]。
- 神功皇后1年: 2月、神功皇后、反乱を起こした忍熊皇子に対するため、紀伊国に上陸、小竹宮に移る。3月5日、武内宿禰と武振熊に命じて忍熊皇子を討たせる[2]。
飛鳥時代
- 舒明天皇9年(637年):上毛野形名の妻が蝦夷に砦を包囲された際、夫の剣を佩き、女達に弓を持たせ、一斉に弦を鳴らすことによって、大軍がいると誤認させる機知で、蝦夷を撤退させる(『日本書紀』舒明天皇9年条)。
- 斉明天皇7年(661年):斉明天皇は、前年新羅に滅ぼされた百済の救援のため1月7日より西征を決行。朝倉宮に移るも、そこで7月24日に崩御[3]。
平安時代
- 治承4年(1180年) - 寿永3年(1184年):治承・寿永の乱の際、女武者巴御前が宇治川の戦いで源義仲に付き添って活躍したとされる。ただし、彼女の記述は『平家物語』など後世の創作物に限られており、実在性については疑問視されている。
鎌倉時代
南北朝時代
戦国・安土桃山時代
- 15世紀末:女首長サンアイイソバに率いられるドゥナン(与那国島)が琉球王国に従う宮古島の軍勢の侵攻を受ける。
- 天文10年(1541年):大三島にて大祝鶴姫が大内氏の軍勢を二度にわたって撃破したとされる。しかし、彼女の存在が記されたという『大祝家記』は実在が確認されておらず、伝説上の人物ではないかとの指摘がある(当該項目参照)。
- 天文12年(1543年): 大祝鶴姫、三たび大内軍を撃破するも、恋人の死に絶望し自殺したとされる。
- 永禄11年(1568年):飯尾連竜の未亡人で曳山城主のお田鶴の方、徳川家康に攻められ落城、討死。ただし、その末路については資料によって相違がある(当該項目参照)。
- 永禄6年前後:吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏の軍勢が城を攻めてきたため、重康の妻が城内の女房・下女・はした、その他の男を呼び集め、下知をなして、兜を着せ、または手で持たせ、塀の上へ差し出し、また左右に槍薙刀を持たせ、前後に馬印を出し、大旗小旗を木の枝・塀・柱に結び付けて、大勢が籠っているように見せ、安芸の軍勢は留守と思っていたため、大勢いると誤認し、安芸へと撤退した(『土佐物語』巻第五「吉田伊賀介妻女の事」)。
- 永禄12年(1569年):北条氏邦家臣諏訪部定勝の妻妙喜、居城日尾城に武田勢が来襲した際、泥酔した夫が目覚めるまで籠城戦を指揮[6]。
- 永禄12年(1569年)10月:大内輝弘の乱。毛利元就の重臣で周防高嶺城番の市川経好の妻である市川局が、夫の不在中、大内輝弘勢による攻撃に耐え城を守る[7]。
- 元亀3年(1572年):武田信玄の西上作戦。松平家家臣で井伊家の当主直虎、武田氏の侵攻を受け井伊谷城を山県昌景に明け渡す。織田家の岩村城の女城主おつやの方、武田方の秋山虎繁の侵攻を受け降伏。
- 天正2年(1574年):三村元親家臣上野隆徳の妻三村鶴姫、常山城が毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から女軍を率いて出撃するも、その後城に戻り自害[8]。
- 天正8年(1580年): 三木合戦。鷹尾山城主別所吉親の妻、波が別所軍に加わり奮戦するも落城前に自害。
- 天正10年(1582年):織田信長による甲州征伐で織田信忠軍が高遠城を攻めた際(5万対3千)、「諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち、切って回り、比類なき働き前代未聞の次第なり」と『信長公記』に記述・評価される。
- 天正11年(1583年):由良成繁の妻妙印尼、息子、国繁、顕長を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。
- 天正12年(1584年)に、越中国の佐々成政に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した(末森城の戦い)。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。
- 天正12年(1584年)-天正14年(1586年):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。
- 天正13年(1585年):人取橋の戦い。二階堂盛義の未亡人で須賀川城主の阿南姫、伊達政宗に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。
- 天正14年(1586年):大友義鎮家臣で、鶴崎城の城主吉岡統増の母妙林尼、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城[9]。
- 天正15年(1587年): 妙林尼、寺司浜の戦いにて島津軍を背後から奇襲し大勝[9]。
- 天正16年(1588年):郡山合戦。阿南姫、伊達政宗に対抗する蘆名氏・相馬氏連合軍として派兵。
- 天正17年(1589年):阿南姫の守る須賀川城、 摺上原の戦いによる蘆名氏の滅亡に伴う伊達氏の侵攻を受け10月に落城。11月、天正天草合戦の本渡城の戦いにて木山正親の妻お京の方が戦闘に参加。地元の伝承では、男装したお京の方が加藤清正に一騎打ちを挑み討たれたという。
- 天正18年(1590年):小田原征伐。3月、妙印尼、豊臣方に与し、松井田城攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる[10]。6月、妙印尼の孫で、忍城城主成田氏長の娘である甲斐姫、北条方として忍城籠城戦に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は蒲生氏郷の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。
- 慶長年中(1596年 - 1615年ごろ):津軽の藤代館の女主人、藤代御前が、津軽為信に攻め込まれ戦死したと伝わる[11]。
- 慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いに関連する一連の合戦が勃発。7月、田辺城の戦いにて城主細川幽斎の妻沼田麝香、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ真田信之の妻小松姫が侍女らとともに武装して留守の沼田城の守備に当たる。8月、安濃津城の戦いにて富田信高の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に立花宗茂に降伏を促すため柳川に進軍した加藤清正が、宗茂の妻誾千代の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍。伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて誾千代の鉄砲隊が発砲したという。
江戸時代
- 慶長19年(1614年):大坂冬の陣。豊臣秀頼の母淀殿、具足を付け城内を激励し、また砲弾が撃ち込まれた際には講和を指示するなどの権力を発揮した。
- 慶長20年(1615年):大坂夏の陣。淀殿、秀頼の出陣を拒否。大阪城は落城し、淀殿自害。
- 1640年代ごろ?:女浪人佐々木累、江戸市中にて旗本奴の白柄組と交戦。
- 慶応3年(1868年):薩摩藩邸焼討事件。新徴組隊士中澤琴、戦闘に参加し踵を負傷。
- 慶応4年(1869年):戊辰戦争の勃発。6月、会津戦争。中野竹子、母こう子や妹優子・神保雪子らとともに婦女隊を結成。会津城外で新政府軍と交戦し、竹子は戦死。城内では松平照の指揮により山川二葉ら婦女子が籠城戦に参加。新島八重は男装しスペンサー銃と刀で応戦。7月、秋田戦争に中沢琴が新徴組隊士として参加。
備考
- 古墳時代の女性埴輪の中には、大刀(群馬県塚廻り4号墳出土)や弓・籠手(滋賀県狐塚5号墳出土)など、武具を持つ例がみられるが、これらは袈裟状衣や袈裟状の襷を着ていることから僻邪儀礼を再現したものとみられる(特別展図録『女性はにわ その装いとしぐさ』 1998年 埼玉県立博物館 p.71)。
- 中世期の風習に、女性同士による形式的な乱闘として、後妻打ちがあり、疑似的な戦闘(喧嘩)といえるが、ルールに基づく。類似例として、北条政子は頼朝の愛人である亀の前の存在を知ると、武士を使って、家を襲わせ、破壊している(森浩一 他 『地域学から歴史を読む』 大巧社 2004年 p.83)。言い換えれば、地位の高い女性が私怨で武士に家を襲わせている。
- 14世紀の財産目録である注文には近畿圏の女性名主の記述が見られるも、武具の記述がなく、少なくともこの時期の近畿圏の女性は武装を行っていない(網野善彦 『中世再考 列島の地域と社会』 講談社学術文庫 2000年 pp.85 - 86)。
- 幸若舞『信田』には、浮島太夫の妻で56歳にもなる弥陀夜叉(みだやしゃ)が櫓に乗って全軍を指揮している内に、自らも鎧を着て、馬に乗り、敵陣に突撃し、討死する話がある(森浩一 他 『地域学から歴史を読む』 大巧社 2004年 p.79)。軍記物語を含め、こうした中世の創作物の中に見られる関東の女性武者から分かることとして、東国における女性の理想像が、強い女を求めていたことを示し、西とは対照的といえる(前同 pp.81 - 82)。
- 『諏方大明神画詞』には、「戦場では女性は後塵で天に向かって呪術を唱えていた」と記されているが、アイヌのユーカラ(ポンヤウンペの語り)においても、戦闘の場面で、敵味方共に女性呪術師が登場し、呪術戦を展開している(女性呪術者が戦場に赴いていた語り)。
- 第二次世界大戦時、及位ヤヱといった女性のパイロットはいたが、戦場には出ていない。また本土決戦に向けて、女学生や主婦の間で、薙刀や竹槍(国民義勇隊の項に写真が見られる)、短棒投げの訓練も行われたが、実戦には至らなかった。戦後、現代の自衛隊には、女性自衛官が存在するが、2020年現在、実戦経験は無い(ただし、今後、自衛隊指揮通信システム隊のサイバー防衛隊に女性隊員が入り、サイバー戦争という形で実戦に入る可能性はある)。
出典
- ^ 宇治谷孟、『日本書紀(上) 全現代語訳』、1988年、講談社、186‐194頁
- ^ 宇治谷孟、『日本書紀(上) 全現代語訳』、1988年、講談社、194‐199頁
- ^ 宇治谷孟、『日本書紀(下) 全現代語訳』、1988年、講談社、216‐217頁
- ^ 高橋永行「国語辞書における「板額」の語釈に対する疑義」『山形県立米沢女子短期大学紀要』第39巻、山形県立米沢女子短期大学、80-91頁、2003年12月26日 。
- ^ “園太暦 4、305頁.”. 2018年7月25日閲覧。
- ^ “コトバンク 「妙喜」”. 2018年7月28日閲覧。
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『市川局』 - コトバンク
- ^ 戦国の合戦 2018年7月28日閲覧。
- ^ a b 郷土教育の理論と実際 2018年7月28日閲覧。
- ^ 高橋浩昭「妙印尼」『戦国人名辞典』(吉川弘文館、2006年) ISBN 978-4-642-01348-2
- ^ 青森県中津軽郡藤代村郷土史 2018年7月28日閲覧。
関連項目
- 日本における女城主の一覧
- 別式 - 江戸時代初期の女武者。武芸指南役も務めた。
- 国民義勇隊 - 昭和前期、大日本婦人会を吸収し、女子隊として編成。兵役や戦闘隊も検討された