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「城戸知正」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
はじめ[[筥崎宮|筥崎座主]][[麟清]]([[大友義鎮|大友宗麟]]の従兄弟)に仕えたが、[[大友氏]]の家臣・[[立花道雪]]の与力として派遣され、肥前・筑後の「耳聞(情報収集役)」として活躍した。道雪の後妻の仲介を取り持った縁で、道雪の娘・[[立花ぎん千代|立花誾千代]]の傅役をつとめた。その後、道雪の後妻の連子・亀菊丸(後の[[安武方清]])が筥崎座主の後継者に決まるとその後見となる。島津氏の筑前侵攻時、道雪の[[立花城]]篭城の令により、方清が箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に篭った際には、知正が手兵百余名をもって箱崎松原口を守護した。天正15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]により道雪の養子・[[立花宗茂]]に[[柳川城]]を与えられた際には、[[小野鎮幸]]とともに、城受取りの任にあたった。
はじめ[[筥崎宮|筥崎座主]][[麟清]]([[大友義鎮|大友宗麟]]の従兄弟)に仕えたが、[[大友氏]]の家臣・[[立花道雪]]の与力として派遣され、肥前・筑後の「耳聞(情報収集役)」として活躍した。道雪の後妻の仲介を取り持った縁で、道雪の娘・[[立花誾千代]]の傅役をつとめた。その後、道雪の後妻の連子・亀菊丸(後の[[安武方清]])が筥崎座主の後継者に決まるとその後見となる。島津氏の筑前侵攻時、道雪の[[立花城]]篭城の令により、方清が箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に篭った際には、知正が手兵百余名をもって箱崎松原口を守護した。天正15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]により道雪の養子・[[立花宗茂]]に[[柳川城]]を与えられた際には、[[小野鎮幸]]とともに、城受取りの任にあたった。


天正19年頃、家督を長男・[[城戸清種|清種]]に譲り隠居した。子孫は柳川藩士として続き、「享保八年藩士系図、上」にも城戸甚太夫種定の名が記されている。
天正19年頃、家督を長男・[[城戸清種|清種]]に譲り隠居した。子孫は柳川藩士として続き、「享保八年藩士系図、上」にも城戸甚太夫種定の名が記されている。

2020年8月2日 (日) 22:19時点における版

 
城戸知正
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
官位 豊前守
主君 筥崎座主麟清立花道雪立花宗茂
氏族 橘氏流
父母 不詳
兄弟 不詳
江上佐渡守女
城戸清種、女(十時連貞妻)、城戸新兵衛尉、城戸宮内少輔
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城戸 知正(きど ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

生涯

はじめ筥崎座主麟清大友宗麟の従兄弟)に仕えたが、大友氏の家臣・立花道雪の与力として派遣され、肥前・筑後の「耳聞(情報収集役)」として活躍した。道雪の後妻の仲介を取り持った縁で、道雪の娘・立花誾千代の傅役をつとめた。その後、道雪の後妻の連子・亀菊丸(後の安武方清)が筥崎座主の後継者に決まるとその後見となる。島津氏の筑前侵攻時、道雪の立花城篭城の令により、方清が箱崎党400余名の兵を率いて立花山城に篭った際には、知正が手兵百余名をもって箱崎松原口を守護した。天正15年(1587年)、豊臣秀吉により道雪の養子・立花宗茂柳川城を与えられた際には、小野鎮幸とともに、城受取りの任にあたった。

天正19年頃、家督を長男・清種に譲り隠居した。子孫は柳川藩士として続き、「享保八年藩士系図、上」にも城戸甚太夫種定の名が記されている。

参考文献

  • 筑前博多史料豊前覚書 城戸清種著、川添 昭二校訂、文献出版、昭55
  • 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』 柳川市史編集委員会編・ 福岡県柳川市 1996年平成8年)発行