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その後10年あまり中国各地を遍歴し[[寛永]]6年(1629年)<ref>[http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/kyoiku-bunka/bunnkazai/bunkazai/nakago/itiran.jsp 寛永7年(1630年)、高寿覚の供養塔を建立した。都城市豊満町池平池に現存する。]</ref>、[[長崎]]に帰来。翌年に[[薩摩国|薩摩]]に行くと[[示現流]]開祖の[[東郷重位]]に発見されて中国に行っていたことが発覚。重位より藩主[[島津光久]]に伝えられて取り立てられ、'''一覧'''という名を賜った。再び長崎に移り、寛永18年(1641年)に[[長崎奉行所]]の[[唐通事|小通事]]となり、2年後には大通事となった。[[慶安]]2年(1649年)47歳のとき、4男<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004631743/ 朱全安「深見玄岱について 近世日本における中国語の受容に関する一考察」千葉商大紀要]</ref>[[高玄岱]]が誕生。[[万治]]2年(1659年)、通事職<ref>[[寛延]]2年(1749年)頃に書家の[[趙陶斎]]が[[大坂]]の唐通事'''深見久兵'''衛宅に寓居した記録がある。大誦の子孫が唐通事の役職と久兵衛を世襲したものと思われる。</ref>を退く。 |
その後10年あまり中国各地を遍歴し[[寛永]]6年(1629年)<ref>[http://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/kyoiku-bunka/bunnkazai/bunkazai/nakago/itiran.jsp 寛永7年(1630年)、高寿覚の供養塔を建立した。都城市豊満町池平池に現存する。]</ref>、[[長崎]]に帰来。翌年に[[薩摩国|薩摩]]に行くと[[示現流]]開祖の[[東郷重位]]に発見されて中国に行っていたことが発覚。重位より藩主[[島津光久]]に伝えられて取り立てられ、'''一覧'''という名を賜った。再び長崎に移り、寛永18年(1641年)に[[長崎奉行所]]の[[唐通事|小通事]]となり、2年後には大通事となった。[[慶安]]2年(1649年)47歳のとき、4男<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004631743/ 朱全安「深見玄岱について 近世日本における中国語の受容に関する一考察」千葉商大紀要]</ref>[[高玄岱]]が誕生。[[万治]]2年(1659年)、通事職<ref>[[寛延]]2年(1749年)頃に書家の[[趙陶斎]]が[[大坂]]の唐通事'''深見久兵'''衛宅に寓居した記録がある。大誦の子孫が唐通事の役職と久兵衛を世襲したものと思われる。</ref>を退く。 |
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引退後、長崎を流れる[[中島川]]に架かる[[石橋]]<ref>一覧橋は[[明暦]]3年(1657年)に架設された。[[享保]]6年(1721年)の洪水で流失し、[[享和]]元年(1801年)に[[長崎奉行所]]によって再架設されたが[[昭和]]57年(1982年)の[[長崎大水害]]で全壊。昭和61年(1986年)、コンクリート造りの橋として架設された。</ref>を寄進。また[[逸然]]の要請に応じて[[隠元隆琦]]の招請メンバー<ref>第1回・第4回の招請書に添えた檀越の請啓に名を連ねる。大槻、1998</ref>に[[檀越]]として加わるなど長崎の名士として活躍した。 |
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[[寛文]]5年(1665年)に[[宇治]][[萬福寺|黄檗山萬福寺]]に上り、同年7月に[[木庵性トウ|木庵]]の[[江戸]]行きに随行。唐通事を務めた。[[浅草寺]]には大誦の書「施無為」の大額が伝えられている。 |
2020年8月2日 (日) 22:11時点における版
高 大誦(こう たいしょう、慶長8年(1603年) - 卒年不詳)は江戸時代前期の唐通事。高玄岱の父。詩や書に優れた。
名は超方のちに一覧。字は応科。大誦は号。帰化して初め渤海(ふかみ)と称したが後に深見に改めた。通称久兵衛または休兵衛。
略伝
父の高寿寛は渤海出身の福建省漳州の人で日向都城に渡来しその後帰国した。この父の子として都城堅馬場に生まれた[1]という。近所の町人の家の松の木を折った罰で市来の寺に入れられていたが、勝手に抜け出して父を訪ねて中国明に渡ったため行方不明扱いになっていた[2]。
その後10年あまり中国各地を遍歴し寛永6年(1629年)[3]、長崎に帰来。翌年に薩摩に行くと示現流開祖の東郷重位に発見されて中国に行っていたことが発覚。重位より藩主島津光久に伝えられて取り立てられ、一覧という名を賜った。再び長崎に移り、寛永18年(1641年)に長崎奉行所の小通事となり、2年後には大通事となった。慶安2年(1649年)47歳のとき、4男[4]高玄岱が誕生。万治2年(1659年)、通事職[5]を退く。
引退後、長崎を流れる中島川に架かる石橋[6]を寄進。また逸然の要請に応じて隠元隆琦の招請メンバー[7]に檀越として加わるなど長崎の名士として活躍した。
寛文5年(1665年)に宇治黄檗山萬福寺に上り、同年7月に木庵の江戸行きに随行。唐通事を務めた。浅草寺には大誦の書「施無為」の大額が伝えられている。
註
- ^ 養子説があり、これによると慶長7年(1602年)都城安久正応寺門前の鎌田新右衛門の次男として生まれ、少年期に高寿寛の養子になったという。
- ^ 井上良吉『薩藩画人伝』下鹿児島県立図書館所蔵
- ^ 寛永7年(1630年)、高寿覚の供養塔を建立した。都城市豊満町池平池に現存する。
- ^ 朱全安「深見玄岱について 近世日本における中国語の受容に関する一考察」千葉商大紀要
- ^ 寛延2年(1749年)頃に書家の趙陶斎が大坂の唐通事深見久兵衛宅に寓居した記録がある。大誦の子孫が唐通事の役職と久兵衛を世襲したものと思われる。
- ^ 一覧橋は明暦3年(1657年)に架設された。享保6年(1721年)の洪水で流失し、享和元年(1801年)に長崎奉行所によって再架設されたが昭和57年(1982年)の長崎大水害で全壊。昭和61年(1986年)、コンクリート造りの橋として架設された。
- ^ 第1回・第4回の招請書に添えた檀越の請啓に名を連ねる。大槻、1998
参考文献
- 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版 ISBN 4784205381
- 頴川君平『訳司統譜』
- 廬驥『長崎先民伝』