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'''鉄心道胖'''(てつしん どうはん、[[寛永]]18年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]([[1641年]][[11月26日]]) - [[宝永]]7年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]([[1710年]][[11月23日]]))は、[[江戸時代]]の僧侶([[黄檗宗]])。俗姓西村氏。 |
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[[長崎市|長崎]]出身。父は唐人の[[陳朴純]]、母は地元の商家西村家の娘。異父兄に[[通詞|唐通事]]の西村七兵衛がある。幼時より[[隠元隆琦]]の弟子[[木庵性トウ|木庵性瑫]]に学び、[[1661年]]([[寛文]]元年)より師に従い[[京都]][[萬福寺]]において修行した。 |
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[[1677年]]([[延宝]]4年)、既に名僧の誉れ高かった鉄心のために母の実家西村家や当時の[[長崎奉行]]、在崎唐人等の支援により[[聖福寺 (長崎市)|聖福寺]]が建立され、同寺の開山として迎えられた。その後は[[1705年]](宝永2年)から4年間、江戸白金の瑞聖寺の住持を務めたほかは同寺にあり、堂宇の整備などにつとめた。 |
[[1677年]]([[延宝]]4年)、既に名僧の誉れ高かった鉄心のために母の実家西村家や当時の[[長崎奉行]]、在崎唐人等の支援により[[聖福寺 (長崎市)|聖福寺]]が建立され、同寺の開山として迎えられた。その後は[[1705年]](宝永2年)から4年間、江戸白金の瑞聖寺の住持を務めたほかは同寺にあり、堂宇の整備などにつとめた。 |
2020年8月2日 (日) 22:09時点における版
鉄心道胖(てつしん どうはん、寛永18年10月24日(1641年11月26日) - 宝永7年10月3日(1710年11月23日))は、江戸時代の僧侶(黄檗宗)。俗姓西村氏。
長崎出身。父は唐人の陳朴純、母は地元の商家西村家の娘。異父兄に唐通事の西村七兵衛がある。幼時より隠元隆琦の弟子木庵性瑫に学び、1661年(寛文元年)より師に従い京都萬福寺において修行した。
1677年(延宝4年)、既に名僧の誉れ高かった鉄心のために母の実家西村家や当時の長崎奉行、在崎唐人等の支援により聖福寺が建立され、同寺の開山として迎えられた。その後は1705年(宝永2年)から4年間、江戸白金の瑞聖寺の住持を務めたほかは同寺にあり、堂宇の整備などにつとめた。