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[[ショウ州市|漳州]]にある南院において出家。
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[[隠元隆き|隠元隆琦]]の法弟にあたる亘信行弥の法嗣となった。
[[隠元隆琦]]の法弟にあたる亘信行弥の法嗣となった。


[[1650年]]([[慶安]]3年)に来日し、[[長崎市|長崎]]の[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]の住持となった。[[1651年]](慶安4年)には、[[盤珪永琢]]が参禅し、付法を受けた。
[[1650年]]([[慶安]]3年)に来日し、[[長崎市|長崎]]の[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]の住持となった。[[1651年]](慶安4年)には、[[盤珪永琢]]が参禅し、付法を受けた。

2020年8月2日 (日) 22:07時点における版

道者超元
1602年 - 1662年
生地 福建省興化府莆田県
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 崇福寺、国観寺
亘信行弥
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道者超元(どうしゃ ちょうげん、1602年万暦30年) - 1662年康煕元年))は、初に来日した中国僧。福建省興化府莆田県の生まれ。

生涯

漳州にある南院において出家。

隠元隆琦の法弟にあたる亘信行弥の法嗣となった。

1650年慶安3年)に来日し、長崎崇福寺の住持となった。1651年(慶安4年)には、盤珪永琢が参禅し、付法を受けた。

1655年明暦元年)5月、隠元が来日し、崇福寺に入ると、住持の座を譲り、監寺と就った。同年9月、隠元が摂津国の普門寺に移ると、再度、崇福寺の住持と就った。

1657年(明暦3年)2月、即非如一が来日し、やはり崇福寺に入寺すると、翌年には、道者は隠退した。

1658年万治元年)に中国に戻り、1662年(康煕元年)に福建の興化府にある国観寺で没した。享年61。