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「福聚寺 (北九州市)」の版間の差分

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==由緒・歴史==
==由緒・歴史==
1665年(寛文5年)、小倉小笠原の初代藩主[[小笠原忠真]]が[[菩提寺]]として創建。開山は[[即非如一]]([[隠元隆|隠元]]の高弟)。1679年(延宝7年)、2代藩主[[小笠原忠雄]]により現在地に改められた。1866年(慶応2年)、長州藩との戦いの時に多くが焼失したが、本堂や入り口の門、鐘つき堂等は当時のまま残されている。1969年(昭和44年)、県指定史跡<ref name="fukujuji1">{{Cite web|url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100248.html|title=【県指定】広寿山福聚寺|publisher=北九州市|accessdate=2019-06-01}}</ref>
1665年(寛文5年)、小倉小笠原の初代藩主[[小笠原忠真]]が[[菩提寺]]として創建。開山は[[即非如一]]([[隠元隆|隠元]]の高弟)。1679年(延宝7年)、2代藩主[[小笠原忠雄]]により現在地に改められた。1866年(慶応2年)、長州藩との戦いの時に多くが焼失したが、本堂や入り口の門、鐘つき堂等は当時のまま残されている。1969年(昭和44年)、県指定史跡<ref name="fukujuji1">{{Cite web|url=https://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/02100248.html|title=【県指定】広寿山福聚寺|publisher=北九州市|accessdate=2019-06-01}}</ref>
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2020年8月2日 (日) 22:07時点における版

福聚寺
所在地 福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7
山号 広寿山
(廣寿山、広壽山、廣壽山)
宗派 黄檗宗
本尊 釈迦如来
創建年 寛文5年(1665年
開基 即非如一
正式名 広寿山福聚寺
廣壽山福聚寺
札所等 九州四十九院薬師霊場第六番札所
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福聚寺(ふくじゅじ)は、福岡県北九州市小倉北区寿山町にある黄檗宗の寺院。山号は広寿山。本尊は釈迦如来

由緒・歴史

1665年(寛文5年)、小倉小笠原の初代藩主小笠原忠真菩提寺として創建。開山は即非如一隠元の高弟)。1679年(延宝7年)、2代藩主小笠原忠雄により現在地に改められた。1866年(慶応2年)、長州藩との戦いの時に多くが焼失したが、本堂や入り口の門、鐘つき堂等は当時のまま残されている。1969年(昭和44年)、県指定史跡[1] [2]

境内の墓地には小倉藩の戦死者を祀る「慶応之役小倉藩戦死者墓」がある[3]。また、小倉炭鉱出水事故の殉職者慰霊塔も建立されている[4]

文化財

県指定史跡

  • 広寿山福聚寺

県指定文化財

  • 絹本著色即非画像
  • 絹本著色法雲画像
  • 絹本著色木庵画像
  • 絹本著色永貞院画像
  • 絹本隠元画像
  • 藕糸織弥蛇三尊来迎図
  • 藕糸織聖衆来迎来迎図
  • 藕糸織霊山浄土図

脚注

  1. ^ 【県指定】広寿山福聚寺”. 北九州市. 2019年6月1日閲覧。
  2. ^ 広寿山福聚寺”. 北九州市. 2019年6月1日閲覧。
  3. ^ “【今こそ知りたい幕末明治】小倉藩「義を重んずるの挙動」”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2018年12月7日). https://www.sankei.com/region/news/181207/rgn1812070050-n1.html 2019年9月7日閲覧。 
  4. ^ 福聚寺に関するトピックス”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2019年9月7日閲覧。

関連項目

外部リンク