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* 『[[勝鬘経]]義疏 聖徳太子御製』 岩波文庫, 1948、復刊1988ほか/改訂版 [[吉川弘文館]], 1977
* 『[[勝鬘経]]義疏 聖徳太子御製』 岩波文庫, 1948、復刊1988ほか/改訂版 [[吉川弘文館]], 1977
* 『[[維摩経]]義疏』 [[百華苑]], 1971、改訂版1980
* 『[[維摩経]]義疏』 [[百華苑]], 1971、改訂版1980
* 『[[上宮聖徳法王帝説]]』 [[狩谷エキ斎|狩谷棭斎]]證註、岩波文庫(共注),1941、復刊1988
* 『[[上宮聖徳法王帝説]]』 [[狩谷棭斎]]證註、岩波文庫(共注),1941、復刊1988


== 評伝 ==
== 評伝 ==

2020年8月2日 (日) 21:55時点における版

花山 信勝(はなやま しんしょう、1898年明治31年)12月3日 - 1995年平成7年)3月20日)は、日本の仏教学者浄土真宗本願寺派僧侶東京大学名誉教授

概要

石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。1935年昭和10年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。

1946年昭和21年)2月から巣鴨拘置所教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋1952年昭和27年)8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)

家族

長男の花山勝道は、金沢で浄土真宗本願寺派「宗林寺」の住職を務めた。

次男の花山勝友も仏教学者で武蔵野女子大学副学長などを務めたが、父の後を追う形で同じ1995年に病没した。なお次男勝友や門下生達との座談会での回想が、『東方学回想 Ⅵ 学問の思い出〈2〉』(刀水書房、2000年)に収録している。

著書

  • 『聖徳太子御製 法華義疏の研究』 東洋文庫, 1933
  • 聖徳太子の仏教』 仏教年鑑社, 1936
  • 『聖徳太子と日本文化』 日本文化協会、1937 日本精神叢書
  • 『日本の仏教』 内閣印刷局, 1942 国体の本義解説叢書
  • 『憲法十七条の精神』 厚徳書院, 1943
  • 『日本仏教』 三省堂, 1944
  • 『勝鬘経義疏の上宮王撰に関する研究』 岩波書店, 1944
  • 『白道に生きて』 顕真叢書1・北方出版社, 1948
  • 『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』 朝日新聞社, 1949
    • 『巣鴨の生と死 ある教誨師の記録』 中公文庫, 1995/方丈堂出版, 2008
  • 『万世を照らすもの-仏教学徒の記録』 酣灯社, 1949
  • 『永遠への道 わが八十年の生涯』 日本工業新聞社, 1982
  • 『聖徳太子と憲法十七条』 大蔵出版, 1982
  • 『太平洋戦争とお念仏』 永田文昌堂, 1986 国際真宗学会・ブックレット

訳註・校訂

評伝

  • 小林弘忠『巣鴨プリズン―教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』 中公新書, 1999/中公文庫, 2007
  • 『A級戦犯者の遺言 教誨師・花山信勝が聞いたお念仏』 青木馨編、法藏館, 2019

参考文献