コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「書経」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 森鷗外への記事名変更に伴う変更 - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
86行目: 86行目:
この偽古文尚書は世の信頼を集め、[[孔穎達]]の[[五経正義]]の底本原注となって、後世に長く伝わるものとなった{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。
この偽古文尚書は世の信頼を集め、[[孔穎達]]の[[五経正義]]の底本原注となって、後世に長く伝わるものとなった{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。


この本は「今文尚書」のうち「太誓」を除く28篇を含み、篇を分けて33篇としていた。それに加えて新出の25篇があり、合わせると[[漢]]の[[劉キン (学者)|劉歆]]や[[桓譚]]のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致していた。しかも、[[孔安国]][[伝]]という注釈(偽孔伝)が付され、さらに孔安国の大序なるものと百篇書序が各篇頭につけられていた。この梅賾本は東晋で早速、学官に立てられ、[[南朝 (中国)|南朝]]を通じて伝えられた。やがて「偽古文尚書」「偽孔伝」に注釈をつけた[[梁 (南朝)|梁]]の[[費カン|費甝]](ひかん)の『尚書義疏』が[[北朝 (中国)|北朝]]出身の[[劉シャク|劉焯]]・[[劉炫]]によって取りあげられ、[[唐]]の『尚書正義』のテキストとなった。{{要出典|date=2018年12月}}。
この本は「今文尚書」のうち「太誓」を除く28篇を含み、篇を分けて33篇としていた。それに加えて新出の25篇があり、合わせると[[漢]]の[[劉キン (学者)|劉歆]]や[[桓譚]]のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致していた。しかも、[[孔安国]][[伝]]という注釈(偽孔伝)が付され、さらに孔安国の大序なるものと百篇書序が各篇頭につけられていた。この梅賾本は東晋で早速、学官に立てられ、[[南朝 (中国)|南朝]]を通じて伝えられた。やがて「偽古文尚書」「偽孔伝」に注釈をつけた[[梁 (南朝)|梁]]の[[費カン|費甝]](ひかん)の『尚書義疏』が[[北朝 (中国)|北朝]]出身の[[劉焯]]・[[劉炫]]によって取りあげられ、[[唐]]の『尚書正義』のテキストとなった。{{要出典|date=2018年12月}}。


唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[天宝 (唐)|天宝]]3載([[744年]])、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている書経はこのとき改訂を経たものである{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。
唐の[[玄宗 (唐)|玄宗]]の[[天宝 (唐)|天宝]]3載([[744年]])、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている書経はこのとき改訂を経たものである{{Sfn|宮内庁書陵部|1960|p=6}}。

2020年8月2日 (日) 21:41時点における版

儒家経典
五経
九経



儀礼/周礼
春秋
礼記
春秋左氏伝
春秋公羊伝
春秋穀梁伝
七経 十二経
論語
孝経
爾雅
十三経
孟子

書経』(しょきょう)は、中国古代の歴史書で、伝説の聖人であるから王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている[1]。 『尚書』または単に『』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある[1]

内容に違いがある2種類の本文が伝わっており、それぞれを「古文尚書」・「今文尚書」と呼んで区別する[1]。 現代に伝わっている「古文尚書」は由来に偽りがあることが断定されているので「偽古文尚書」とも呼ばれる[2]。もともとの「古文尚書」は失われており、現代には伝わっていない[1]

名称

書経は、古くは『尚書』と呼ばれたが、明代あたりから『書経』といわれるようになり、現代も『書経』という名で呼ばれる。 名称の意味や変遷について研究者の説を下記に列挙する。

  • 古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた[要出典]
  • 『書』とは、「書かれたもの」「記録」という意味[1]
  • 『尚書』とは、「古代以来(尚)の記録」という意味[1][3]
  • 『尚書』とは、「上代の聖人賢人の言行を書いたもの」という意味。「尚」には「上」という字と同じ意味がある[4]
  • 『尚書』とは、上代の尚ぶべき書という意味[5][3]
  • 『書経』と名がつけられたのは漢代。その根拠は漢の武帝の時に、詩・書・春秋・易・禮の五つを学問上の最も重要な書物とし、総称して「五経」とし、五経博士が立てられ、これ以降「経」は聖人賢人の教えを書いたものという意味で用いられるようになったからである。もともと「経」には「常」という意味があり、聖人賢人の教えは時が経っても変わらないものであるという意味であるという。[6]
  • 『書経』とは、聖人の定法という意味。「書」は記すことで、「経」は「常」という意味[3]
  • 『書経』の名が一般化するのは宋代以降である[要出典]

成立と伝来

成立

『書経』には穆公の記載があるため、成立は早くとも秦の穆公が在位を開始した紀元前659年以降である。 さらに、書経の中の『洪範』で記されている政治学は五行説が基になっており、五行説の成立は戦国時代であることから、成立年代は早くとも戦国時代(紀元前5世紀以降)までに限られる[7]

また、書経の中の「堯典」の名が、孟子の書で言及されていることから遅くとも孟子が死亡する紀元前283年までに成立していたことになる[8]

古来の通説では孔子が、各国の史官が書き残した重要な出来事の記録およそ100篇を入手し、堯から秦の穆公まで取捨選択し編纂したことで成立したと考えられていた[9][5]。 しかし、孔子が編纂を行ったことと、その基となった資料の年代に疑義が唱えられている。

孔子による編纂

孔子が編纂したということについて、小林一郎は同じように孔子が編纂したと伝えられる詩経については、孔子自身もいろいろ語っていたことが論語に記録されているが、書経については孔子自身が何か語ったという記録が一切無い。 そのため、孔子が書経に手を加えたと言う証拠はなく、ただそういう言い伝えがあるに過ぎないとしている[10]

飯島忠夫は、史記の「孟子荀卿列伝」には、戦国時代の中期に孟子がその弟子とともに「序詩書」したと記してあることに着目し、「序」とは編纂の意義であるから、詩経・書経の編纂について問題となると指摘している[11]

原資料の年代

飯島忠夫は堯の時代(紀元前2000年代とされている)のことが記されている『堯典』に四つの星、「鳥」「火」「虚」「昴」の記述があることに注目し、天体の位置を計算したところあてはまるのは堯の時代ではなく紀元前4世紀頃の戦国時代初期であると推測した[7]

また、堯典には1年が366日であると記されているが、366日を1年とする暦法はこの記載があるだけで実際に適用された日付を持つ記載は皆無であることであるから、戦国時代初期の観測の結果制定された1年は365日と4分の1という暦法の概数を記載しているだけであるとする。 このことからも堯典は戦国時代以前にさかのぼることができない。

散逸と再発見

原典の散逸

先秦時代に伝えられていた書経は秦の始皇帝焚書坑儒により禁書とされ失われてしまった[4][5]。 わずかに他の儒教経伝や墨子をはじめとする諸子百家の書物、歴史書などに引用されている部分が今に伝わるのみであった[要出典]

書経の伝来。各書経の関係。

今文尚書

漢の時代になると再び学問が復興し、失われた書経が再発見された[4]。 再発見の1つは秦の博士だった伏生(伏勝)が壁の中に隠しておいた29篇である[5]。これはその時(漢の時代)に使用されていた字体である隷書体で書き直された[12]ため「今文尚書」(きんぶんしょうしょ)と呼ばれる[1]

今文尚書は、やがてにおいて伏生から欧陽生(字は和伯)・張生に伝えられ、欧陽高(欧陽和伯の曾孫)・夏侯勝(大夏侯)・夏侯建(小夏侯)の三家に分かれた。武帝の時には欧陽氏本に対して学官に立てられ、宣帝の時、三家とも学官に立てられた。それぞれ29篇であり、伏氏本に「太誓」1篇が加えられて29篇となった。また文帝の時、詔して鼂錯を伏生(当時90余歳)のもとに派遣し、『尚書』を受けさせている。これが他の3本とどう関わるかは定かではない[要出典]

後漢でも十四博士として三家が続けられたが、その後は古文学が隆盛して振るわなかった[要出典]

なお残片が少し残っている後漢の熹平石経のテキストは欧陽氏本と考えられている[要出典]

古文尚書

時代が少し下って漢の景帝の時、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊してたくさんの古典籍を発見した。これには書経も含まれており[1][6]、先秦時代に使われていた蝌蚪文字(かともじ、科斗)で記載されていたため、この書経を「古文尚書」(こぶんしょうしょ)と言う[12]。全部で58篇あり、今文尚書にないものが16篇あった[5]

孔子の旧宅の壁の中から古文で書かれた書経が発見されたことは劉歆の「移太常博士書」(『漢書』楚元王伝所収)に記載されており、魯国の恭王劉余がの旧宅を壊して宮殿としようとしたこところ、壁の中から古文による先秦書籍を得たという[要出典]天漢中、孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった[要出典]。 壁の中から発見された古文なので、これを壁中古文本とも呼ぶ[要出典]。 『史記』儒林伝を補完するような内容になっている[要出典]

この古文尚書は、普及しないまま西晋時代に永嘉の乱によって他の古文書と共に失われてしまった[5][1]

壁中古文本の他にも、古文で書かれた書経の発見の記録があり[要出典]、下記に列挙する。

  • 孔安国伝本 - 司馬遷の『史記』儒林伝の記載によると、孔子の家に伝えられた『尚書』があり、孔子10世孫の孔安国今文に読み替えたところ、「今文尚書」にない10余篇があったという。これは壁中古文本と同じものと考えられる[要出典]
  • 中古文 - 宮中の図書館が所蔵していた「古文尚書」。班固の『漢書芸文志の記載によると、劉向が「中古文」で欧陽氏、大小夏侯氏の「今文尚書」を校訂したところ、竹簡の脱落が「酒誥」篇に一簡、「召誥」篇に二簡あったという。これが孔安国伝本であるかは定かではない[要出典]
  • 河間献王本 - 河間献王劉徳が伝えた「古文尚書」。『漢書』景十三王伝の記載によると、河間献王は古典収集を好み、その集めた書物は『周官』『』『礼記』『孟子』『老子』などであったという。その仔細は不明[要出典]
  • 張覇百両篇 - 『漢書』儒林伝の記載によると、世間に伝わっていた102篇の「古文尚書」というものがあり、張覇が伝えたものであった。成帝の時、それを求めて宮中の尚書と比べたところ偽書であったという。これは孔子が『尚書』を100篇にまとめたという伝承から作られたものと考えられる。偽書ではあるが、現在に伝わる『尚書』につけられた100篇の序、いわゆる「百篇書序」との関係が指摘される[要出典]
  • 杜林漆書古文本 - 後漢杜林が伝えた「古文尚書」。『後漢書』杜林伝の記載によると、新末後漢初、杜林は西州隗囂の軍閥政権があった)に居たときに漆で書かれた「古文尚書」を得たという。ただし、壁中古文本のように逸書はなく、「今文尚書」と同じ29篇であった。このため杜林本は「今文尚書」を古い字体に故意に書き換えただけのものだとの指摘がある。杜林本には衛宏が『訓旨』を、徐巡が『音』を、賈逵が『訓』を、馬融が『伝』を、盧植が『章句』を、鄭玄が『注解』を作った[要出典]

古文経伝に依拠した古文学において「古文尚書」は、前漢末から後漢前期の劉歆班固らには壁中古文本として扱われていたが、後漢後期の鄭玄らになると杜林漆書古文本を指すようになっていったと考えられる[要出典]。 壁中古文本などは早いうちに隷書体に書き換えられたのであるから、そこで問題にされているのは「今文尚書」にない逸書があること、つまりテキストの違いであるが、漆書古文本は「今文尚書」とテキストとしては同じであるから、問題にされているのは文字の字体や用字の違いである[要出典]許慎が『説文解字』で今文(隷書)を斥けて篆書古文による漢字分析を行ったことや古文篆書隷書三体の石経を作ったことに後漢後期からの「古文」観が見てとれる。結局、壁中古文本にあった逸書16篇に注がつけられることはなく、「今文尚書」と同じ29篇のみが行われた[要出典]

残片が発見されている三体石経のテキストは、杜林漆書古文本と考えられる[要出典]

偽古文尚書

古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅賾(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した[13]。後に偽作であることが判明している[2]ので現在ではこの書経は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる。 この偽古文尚書は世の信頼を集め、孔穎達五経正義の底本原注となって、後世に長く伝わるものとなった[2]

この本は「今文尚書」のうち「太誓」を除く28篇を含み、篇を分けて33篇としていた。それに加えて新出の25篇があり、合わせると劉歆桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致していた。しかも、孔安国という注釈(偽孔伝)が付され、さらに孔安国の大序なるものと百篇書序が各篇頭につけられていた。この梅賾本は東晋で早速、学官に立てられ、南朝を通じて伝えられた。やがて「偽古文尚書」「偽孔伝」に注釈をつけた費甝(ひかん)の『尚書義疏』が北朝出身の劉焯劉炫によって取りあげられ、の『尚書正義』のテキストとなった。[要出典]

唐の玄宗天宝3載(744年)、衛包が古文尚書の改訂を行い、字体は古文から開元文字に改められた。現代に伝わっている書経はこのとき改訂を経たものである[2]

しかし、新出の25篇は他の諸篇と文体が大分異なり、言葉に大分飾りがあり文体が新しかったため、偽作したものではないかと言う議論で古来から多くの学者の論争があった[14]南宋呉棫(ごよく)、朱熹によって懐疑が起こされ[要出典]元代呉澄明代梅鷟(ばいさく)が初歩的な論証を行った[要出典]

そして、閻若璩(えんじゃくきょ)が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した[2]

このように梅賾が発見した古文尚書は偽作であるが、まったく価値のないものではない。 その資料は古文に散見するものを収録してあるから、古代資料としての真を伝えるものとして価値がある[2]

その内容についても、小林一郎は経典として一向に差支えがないとしている。その理由として、たとえば仏教の経典はお釈迦様が自分で書いたものでもなければ、教えを聞いた者がその場で筆記したものでもなく、ただ多くの人々が語り伝えたものを、お釈迦様が亡くなってから300年も500年も経って集めて書いたのであるが、その内容が尊いものであるから価値があるのであり、偽古文尚書についてもこれと同じであるとしている[14]

清華簡

2008年に清華大学が入手した『清華簡』と呼ばれる戦国時代の竹簡には、書経の多くの篇が含まれており焚書坑儒以前の写本であるとされている。 その中には現代に伝わっている書経に存在する篇もあるが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文尚書(後述)の「説命」とはまったく異なる。

今までに整理された清華簡のうち、古代の失われた書経の一部である可能性があるものは「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」である。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、偽古文尚書ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている[15]

日本との関係

書経が我が国に伝来した年代は明らかではないが、継体天皇の時代に五経博士の段楊爾高安茂が相次いで来朝したという記録があるため、この際伝来したものといわれる[2]

日本の元号

昭和平成さらには明和を始め35個の日本の元号は、この書が由来になっている。なお、平成の決定の際には、専門家から出典箇所が偽書の偽古文尚書であり、相応しくないとする意見もあった。

森鷗外は最晩年、候補・典拠の一覧になった『元号考』(『鴎外全集 第20巻』岩波書店、所収)を作成したが、「平成」も既に江戸末期に「明治」等と並んで候補に上っている。鴎外は没した際『元号考』は未完だったので、親友吉田増蔵が、本人から依託され完成させた。なお吉田が改元に際し候補として「昭和」を勘申している。

日本の国宝

  • 古文尚書巻第六 - 1巻/紙本墨書/縦26.0cm 全長328.0cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東京国立博物館
  • 古文尚書巻第三、第五、第十二 - 1巻/紙本墨書/縦26.7cm 全長1138cm/紙背『元秘抄』/7世紀(唐時代)/東洋文庫

これらは同系の写本であり、広橋家が所蔵していた広橋本の一つである。太宗李世民(在位626年 - 649年)の諱を避けていないため、それ以前の伝本をもとに写本したと考えられる。

所々隷書体が使われており、いわゆる「隷古定尚書」と考えられている。「隷古定」とは「偽古文尚書」が生んだ字体で古文を隷書で写し取ったとされるものである。独特で奇怪な字体なので一般に「隷古奇字」ともいわれる。唐の玄宗天宝初年に『尚書』の字体をすべて楷書に改めさせたのでそれ以後は使われていない。

他の唐鈔本や敦煌本に比べて隷書が使われている文字が多く、現存する最古の鈔本とされている。なお紙背には高辻長成の『元秘抄』が室町時代に書写されている。

南宋刊本のいわゆる越州八行本。淳熙1174年 - 1189年)前後の両浙東路茶塩司刻本。

体裁

『書経』にはその体裁によって以下のようなものがある。

  • (こう) - 君主の臣下に対する言葉
  • (ぼ) - 臣下の君主に対する言葉
  • - 君主が民衆に対する宣誓の言葉
  • - 冊命(さくめい)あるいは君主の命令の言葉
  • - 重要な歴史的事件のあらましが書かれたもの

また人名や内容によって篇名が付けられたものもある。

清華簡中の『尚書』

2008年7月、清華大学は2000枚あまりの戦国時代竹簡を得た。これは実業家の趙偉国が海外から購入して清華大学に寄贈したもので、「清華簡」と呼ばれる。専門家の鑑定によれば、この竹簡は戦国時代中期から晩期(今から2300-2400年前)ののものである。清華簡には『尚書』の多くの篇が含まれており、焚書坑儒以前の写本である。その中のあるものは現行の『尚書』にも存在する篇だが(「金縢」「康誥」「顧命」など)、その文言には多くの差異があり、篇題が異なっているものもある。さらに多いのは今まで知られなかった佚篇で、たとえば『尚書』の名篇「傅説之命」は先秦の文献が引用している「説命」と一致し、現行の偽古文「説命」とはまったく異なる。

2009年4月現在、清華簡はその13が初歩的な解読を終えている。2009年までに内容が発表されたものは2種類で、「保訓」と周の武王の時代の楽詩である。「保訓」にはもと題がついておらず、専門家によって本文内容をもとに題がつけられた。内容は周の文王が臨終の際にその子の発(武王)に述べた遺言である。楽詩は周の武王が文王の宗廟で「飲至」の典礼を行うに際し、酒を飲むときにうたう歌で、『楽経』の原文の疑いがある。

今までに整理された清華簡のうち、古代の『尚書』の佚篇の疑いのあるものには「尹至」「尹誥」「説命」「程寤」「保訓」「金縢」「皇門」「祭公」「厚父」「封許之命」がある。うち「厚父」の中の一段である「天降下民、作之君、作之師、惟曰其助上帝寵之」は『孟子』に『書』からの引用として引かれている。しかし、『偽古文尚書』ではこの文を「周書・泰誓」に含めてしまっている[16]

構成

『書経』は時代順に並べられ、虞書夏書商書周書に分けられる。現行の「偽古文尚書」と伏生伝「今文尚書」28篇を比べると以下のようになる。

- 偽古文尚書 今文尚書
虞書 1 堯典 1 堯典
2 舜典
3 大禹謨 - -
4 皋陶謨 2 皋陶謨
5 益稷
夏書 6 禹貢 3 禹貢
7 甘誓 4 甘誓
8 五子之歌 - -
9 胤征 - -
商書 10 湯誓 5 湯誓
11 仲虺之誥 - -
12 湯誥 - -
13 伊訓 - -
14 太甲上 - -
15 太甲中 - -
16 太甲下 - -
17 咸有一徳 - -
18 盤庚上 6 盤庚
19 盤庚中
20 盤庚下
21 説命上 - -
22 説命中 - -
23 説命下 - -
24 高宗肜日 7 高宗肜日
25 西伯戡黎 8 西伯戡黎
26 微子 9 微子
周書 27 泰誓上 - -
28 泰誓中 - -
29 泰誓下 - -
30 牧誓 10 牧誓
31 武成 - -
32 洪範 11 洪範
33 旅獒 - -
34 金縢 12 金縢
35 大誥 13 大誥
36 微子之命 - -
37 康誥 14 康誥
38 酒誥 15 酒誥
39 梓材 16 梓材
40 召誥 17 召誥
41 洛誥 18 雒誥
42 多士 19 多士
43 無逸 20 毋逸
44 君奭 21 君奭
45 蔡仲之命 - -
46 多方 22 多方
47 立政 23 立政
48 周官 - -
49 君陳 - -
50 顧命 24 顧命
51 康王之誥
52 畢命 - -
53 君牙 - -
54 冏命 - -
55 呂刑 26 呂刑
56 文侯之命 27 文侯之命
57 費誓 25 鮮誓
58 秦誓 28 秦誓

「今文尚書」には後に「太誓(泰誓)」が加えられ29篇となった。この「太誓」は漢代に作られた偽書とされる。「偽古文尚書」にある「泰誓」3篇はまたこれとは別の偽書である。

「古文尚書」の逸書16篇の篇名は1.「舜典」、2.「汨作」、3.「九共」、4.「大禹謨」、5.「益稷」、6.「五子之歌」、7.「胤征」、8.「湯誥」、9.「咸有一徳」、10.「典宝」、11.「伊訓」、12.「肆命」、13.「原命」、14.「武成」、15.「旅獒」、16.「冏命」であった。

「偽古文尚書」の構成は複雑であるが、その最たるものが「舜典」であり、もともと梅賾本には「舜典」がなく、王粛注本の「堯典」の後半部「慎徽五典…」以下が当てられ、注も王粛注が付けられたという。その後、南朝斉の姚方興が孔安国伝古文「舜典」なるものを献上したが、「慎徽五典」以前に「曰若稽古…」の十二字が多くあったという。現在のものはその後にさらに「濬哲文明…」の十六字が加えられている。他には「皋陶謨」(こうようぼ)の後半部から「益稷」が作られ、「盤庚」は三篇に分けられ、「顧命」後半部から「康王之誥」が作られた。

注釈

現在通行している『書経』の注釈には以下のものがある。

  • 『尚書正義』 - 偽孔伝・唐の孔穎達疏。唐の『五経正義』の一つ。13巻58篇。後に『十三経注疏』に入れられた(20巻58篇)。
  • 『書集伝』 - 南宋蔡沈撰。6巻58篇。蔡沈は朱熹の弟子であり、序には「堯典」「舜典」「皋陶謨」「大禹謨」に朱熹の校閲を受けたとある。科挙試験の教科書として取りあげられ、広く読まれた。「蔡伝」とも呼ばれる。
  • 『尚書今古文注疏』 - 孫星衍撰。もっぱら今文29篇について注釈し、偽孔伝を退け、漢代今文学古文学の注釈を集め清朝考証学の成果を集めて疏をつけたもの。22年もの時間を費やし完成させた。

全訳版

脚注

参考文献

  • 土屋裕史『「当館所蔵漢籍の「宋版」及び「元版」の解題①」『北の丸』第43号』国立公文書館、2011年。 
  • 宮内庁書陵部『「図書寮典籍解題. [第5] (漢籍篇)」』大蔵省印刷局、1960年。 
  • 小林一郎『「経書大講. 第4巻 書經上」』平凡社、1938年。 
  • 林栄吉『「書経講義」『易経書経講義』少年叢書漢文学講義』興文社、1913年。 
  • 飯島忠夫『「古代世界文化と儒教」』中文館書店、1946年。 
  • Martin Kern (editor) and Dirk Meyer (editor) (2017). Origins of Chinese Political Philosophy: Studies in the Composition and Thought of the Shangshu. Brill 

外部リンク