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[[前漢]]末に匈奴と漢は和親していたが、[[新]]の皇帝[[王莽]]が[[始建国]]元年(西暦9年)に[[烏珠留若鞮単于]]の地位を下げようとしたことから関係が悪化した。新から匈奴に投降する者が出て、新に服属していた[[西域]]諸国に動揺が走った。
[[前漢]]末に匈奴と漢は和親していたが、[[新]]の皇帝[[王莽]]が[[始建国]]元年(西暦9年)に[[烏珠留若鞮単于]]の地位を下げようとしたことから関係が悪化した。新から匈奴に投降する者が出て、新に服属していた[[西域]]諸国に動揺が走った。


始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴に15人の単于を立てて分裂させようと考え、30万人の兵士を動員して北辺に配置し<ref>『漢書』王莽伝第69中、始建国2年12月条。ちくま学芸文庫『漢書』8、375-376頁。</ref>、中郎将の藺苞、副校尉の[[戴級]]と将兵1万騎を[[雲中郡]]の塞に遣わした<ref name=kyododen>『漢書』匈奴伝第64下。ちくま学芸文庫『漢書』7、634頁</ref>。始建国3年(11年)に、藺苞らは[[呼韓邪単于]]の子、右犁汗王咸と、その子の登と助の3人を塞に誘い入れた。黄金などの宝を与え、また脅して、咸を[[烏累若テイ単于|孝単于]]、助を[[順単于 (助)|順単于]]に立てた<ref>『漢書』王莽伝は登を順単于にしたと記す。匈奴伝には、はじめ助を順単于にし、その病死後に登を順単于にしたとある。ちくま学芸文庫『漢書』7の634頁と638頁、8の381頁。</ref>。そして咸を返し、助と[[順単于 (登)|登]]を都の[[長安]]に送った<ref name=kyododen></ref>。藺苞はこの功績で宣威公に封じられ、虎牙将軍に任命された<ref name=kyododen></ref>。
始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴に15人の単于を立てて分裂させようと考え、30万人の兵士を動員して北辺に配置し<ref>『漢書』王莽伝第69中、始建国2年12月条。ちくま学芸文庫『漢書』8、375-376頁。</ref>、中郎将の藺苞、副校尉の[[戴級]]と将兵1万騎を[[雲中郡]]の塞に遣わした<ref name=kyododen>『漢書』匈奴伝第64下。ちくま学芸文庫『漢書』7、634頁</ref>。始建国3年(11年)に、藺苞らは[[呼韓邪単于]]の子、右犁汗王咸と、その子の登と助の3人を塞に誘い入れた。黄金などの宝を与え、また脅して、咸を[[烏累若単于|孝単于]]、助を[[順単于 (助)|順単于]]に立てた<ref>『漢書』王莽伝は登を順単于にしたと記す。匈奴伝には、はじめ助を順単于にし、その病死後に登を順単于にしたとある。ちくま学芸文庫『漢書』7の634頁と638頁、8の381頁。</ref>。そして咸を返し、助と[[順単于 (登)|登]]を都の[[長安]]に送った<ref name=kyododen></ref>。藺苞はこの功績で宣威公に封じられ、虎牙将軍に任命された<ref name=kyododen></ref>。


結局この分裂工作は失敗して匈奴との戦いが激化し、国内でも反乱が広がったが、藺苞の活動について他に知られることはない。
結局この分裂工作は失敗して匈奴との戦いが激化し、国内でも反乱が広がったが、藺苞の活動について他に知られることはない。

2020年8月2日 (日) 21:31時点における版

藺苞(りんぽう)は、中国のの時代に活動した軍人である。中郎将(西暦10年以前 - 11年)、宣威公(11年封)、虎牙将軍(11年任)。

事績

前漢末に匈奴と漢は和親していたが、の皇帝王莽始建国元年(西暦9年)に烏珠留若鞮単于の地位を下げようとしたことから関係が悪化した。新から匈奴に投降する者が出て、新に服属していた西域諸国に動揺が走った。

始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴に15人の単于を立てて分裂させようと考え、30万人の兵士を動員して北辺に配置し[1]、中郎将の藺苞、副校尉の戴級と将兵1万騎を雲中郡の塞に遣わした[2]。始建国3年(11年)に、藺苞らは呼韓邪単于の子、右犁汗王咸と、その子の登と助の3人を塞に誘い入れた。黄金などの宝を与え、また脅して、咸を孝単于、助を順単于に立てた[3]。そして咸を返し、助とを都の長安に送った[2]。藺苞はこの功績で宣威公に封じられ、虎牙将軍に任命された[2]

結局この分裂工作は失敗して匈奴との戦いが激化し、国内でも反乱が広がったが、藺苞の活動について他に知られることはない。

脚注

  1. ^ 『漢書』王莽伝第69中、始建国2年12月条。ちくま学芸文庫『漢書』8、375-376頁。
  2. ^ a b c 『漢書』匈奴伝第64下。ちくま学芸文庫『漢書』7、634頁
  3. ^ 『漢書』王莽伝は登を順単于にしたと記す。匈奴伝には、はじめ助を順単于にし、その病死後に登を順単于にしたとある。ちくま学芸文庫『漢書』7の634頁と638頁、8の381頁。

参考文献