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日本に留学して、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部を卒業する。帰国後は京師地方検察庁検察長をつとめた。[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)1月、[[北京政府]]から総検察庁検察官に任命された。その翌年には、約法会議議員資格審定会会員に任じられている。[[1915年]](民国4年)11月、総検察庁検察長に昇進し、司法官懲戒委員会委員もつとめた。
日本に留学して、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部を卒業する。帰国後は京師地方検察庁検察長をつとめた。[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)1月、[[北京政府]]から総検察庁検察官に任命された。その翌年には、約法会議議員資格審定会会員に任じられている。[[1915年]](民国4年)11月、総検察庁検察長に昇進し、司法官懲戒委員会委員もつとめた。


[[1918年]](民国7年)3月<ref>鄭同上、劉寿林ほか編『民国職官年表』による。Who's Who in China 3rd ed., ''op.cit.''は「1917年9月」としているが、これは誤りである。</ref>、[[段祺瑞]]内閣の司法総長となった。その翌年6月から12月まで、[[キョウ心湛|&#x9F94;心湛]]臨時内閣と[[キン雲鵬|&#x9773;雲鵬]]内閣で署理内務総長を兼任している。[[1920年]](民国9年)7月、[[安直戦争]]で安徽派が敗北すると、朱深は[[直隷派]]の指名手配を受け、日本公使館を経て[[天津市|天津]]に逃げ込んだ。[[1925年]](民国14年)、臨時執政となった段の下で復帰し、京師警察総監兼京師市政督弁となった。しかし1年足らずで辞任し、北京電燈公司協理となる<ref>Who's Who in China 5th ed, p.66は、「1923年以降引退」と記述している。</ref>。
[[1918年]](民国7年)3月<ref>鄭同上、劉寿林ほか編『民国職官年表』による。Who's Who in China 3rd ed., ''op.cit.''は「1917年9月」としているが、これは誤りである。</ref>、[[段祺瑞]]内閣の司法総長となった。その翌年6月から12月まで、[[心湛]]臨時内閣と[[キン雲鵬|&#x9773;雲鵬]]内閣で署理内務総長を兼任している。[[1920年]](民国9年)7月、[[安直戦争]]で安徽派が敗北すると、朱深は[[直隷派]]の指名手配を受け、日本公使館を経て[[天津市|天津]]に逃げ込んだ。[[1925年]](民国14年)、臨時執政となった段の下で復帰し、京師警察総監兼京師市政督弁となった。しかし1年足らずで辞任し、北京電燈公司協理となる<ref>Who's Who in China 5th ed, p.66は、「1923年以降引退」と記述している。</ref>。


[[1937年]](民国26年)12月、[[王克敏]]らが[[北京市|北平]]で[[中華民国臨時政府]]を創設する。朱深もこれに参加して、法制総長に任命された。翌年9月には、中華民国政府聯合委員会常務委員となっている。[[1939年]](民国28年)、華北電業会社社長も兼ねた。
[[1937年]](民国26年)12月、[[王克敏]]らが[[北京市|北平]]で[[中華民国臨時政府]]を創設する。朱深もこれに参加して、法制総長に任命された。翌年9月には、中華民国政府聯合委員会常務委員となっている。[[1939年]](民国28年)、華北電業会社社長も兼ねた。

2020年8月2日 (日) 21:13時点における版

朱深
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)[1]
死去: 1943年民国31年)7月2日
中華民国北京特別市
出身地: 清の旗 直隷省順天府永清県
職業: 政治家・検察官
各種表記
繁体字 朱深
簡体字 朱深
拼音 Zhū Shēn
ラテン字 Chu Shen
和名表記: しゅ しん
発音転記: ジュー シェン
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朱 深(しゅ しん)は、中華民国の政治家・検察官。北京政府安徽派に属し、後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)にも参加した。博淵

事績

朱深別影

日本に留学して、東京帝国大学法学部を卒業する。帰国後は京師地方検察庁検察長をつとめた。1913年民国2年)1月、北京政府から総検察庁検察官に任命された。その翌年には、約法会議議員資格審定会会員に任じられている。1915年(民国4年)11月、総検察庁検察長に昇進し、司法官懲戒委員会委員もつとめた。

1918年(民国7年)3月[2]段祺瑞内閣の司法総長となった。その翌年6月から12月まで、龔心湛臨時内閣と靳雲鵬内閣で署理内務総長を兼任している。1920年(民国9年)7月、安直戦争で安徽派が敗北すると、朱深は直隷派の指名手配を受け、日本公使館を経て天津に逃げ込んだ。1925年(民国14年)、臨時執政となった段の下で復帰し、京師警察総監兼京師市政督弁となった。しかし1年足らずで辞任し、北京電燈公司協理となる[3]

1937年(民国26年)12月、王克敏らが北平中華民国臨時政府を創設する。朱深もこれに参加して、法制総長に任命された。翌年9月には、中華民国政府聯合委員会常務委員となっている。1939年(民国28年)、華北電業会社社長も兼ねた。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘南京国民政府に合流する。朱深は中国国民党中央執監委員、華北政務委員会常務委員兼政務庁庁長、国民党中央政治委員会委員となる。1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長に昇格し、剿共委員会委員長等も兼任した。

同年7月2日、北京で病没。享年65。

  1. ^ 鄭仁佳「朱深小伝」、徐友春主編『民国人物大事典 増訂版』、東亜問題調査会『最新支那要人伝』による。Who's Who in China 3rd ed, p.231は、1880年としている。
  2. ^ 鄭同上、劉寿林ほか編『民国職官年表』による。Who's Who in China 3rd ed., op.cit.は「1917年9月」としているが、これは誤りである。
  3. ^ Who's Who in China 5th ed, p.66は、「1923年以降引退」と記述している。

参考文献

  • 鄭仁佳「朱深小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント) 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • Who's Who in China 3rd ed. (中國名人錄 第三版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1925) 
  • Who's Who in China 5th ed. (中國名人錄 第五版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1936) 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
劉蕃(署理)
総検察庁総検察長
1915年11月 - 1918年3月
次代
汪曦芝
先代
江庸
司法総長
1918年3月 - 1920年7月
次代
張一鵬
先代
于宝軒
内務総長(署理)
1919年6月 - 12月
次代
田文烈
  中華民国臨時政府
先代
(創設)
法制総長
1937年12月 - 1940年3月
次代
(廃止)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(新設)
華北政務委員会
政務庁長
1940年3月 - 7月
次代
祝惺元
先代
王揖唐
華北政務委員会委員長
1943年2月 - 7月
次代
王克敏