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'''慕容 木延'''<ref>史書には'''木延'''という名しか書かれておらず、彼の時代から'''慕容'''という姓を持っていたかは不明。</ref>(ぼよう ぼくえん、{{ピン音|Mùróng Mùyán}}、生没年不詳)は、[[鮮卑]][[慕容部]]の[[大人 (曖昧さ回避)|大人]]。父は慕容部の始祖である[[莫護跋]]で、子に[[慕容渉帰]]・[[慕容耐]]がいる、[[ |
'''慕容 木延'''<ref>史書には'''木延'''という名しか書かれておらず、彼の時代から'''慕容'''という姓を持っていたかは不明。</ref>(ぼよう ぼくえん、{{ピン音|Mùróng Mùyán}}、生没年不詳)は、[[鮮卑]][[慕容部]]の[[大人 (曖昧さ回避)|大人]]。父は慕容部の始祖である[[莫護跋]]で、子に[[慕容渉帰]]・[[慕容耐]]がいる、[[慕容廆]]の祖父にあたる。 |
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2020年8月1日 (土) 09:26時点における版
慕容 木延[1](ぼよう ぼくえん、拼音: 、生没年不詳)は、鮮卑慕容部の大人。父は慕容部の始祖である莫護跋で、子に慕容渉帰・慕容耐がいる、慕容廆の祖父にあたる。
生涯
父の莫護跋の後を継いで慕容部の大人となった。
父の時代に引き続いて西晋との従属関係を保ち、左賢王の地位を与えられた。
246年2月、魏の毌丘倹が高句麗討伐に赴くと、慕容木延もこれに従軍して戦功をあげた。同年、功績により大都督の位を加えられた[2]。
慕容木延が死ぬと、子の慕容渉帰が後を継いだ。没年は不詳であるが、281年は既に慕容渉帰が大人となっている事から、それ以前と思われる。
参考資料
脚注
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