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安東将軍の[[周浚]]の子として生まれた。若くして名声があり、賁嵩や[[戴淵]]らに賞賛された。弱冠にして父の武城侯の爵位を嗣ぎ、秘書郎に任じられ、尚書吏部郎に累進した。東海王[[司馬越]]の子の[[司馬毗]]が鎮軍将軍となると、周顗はその下で鎮軍長史をつとめた。
安東将軍の[[周浚]]の子として生まれた。若くして名声があり、賁嵩や[[戴淵]]らに賞賛された。弱冠にして父の武城侯の爵位を嗣ぎ、秘書郎に任じられ、尚書吏部郎に累進した。東海王[[司馬越]]の子の[[司馬毗]]が鎮軍将軍となると、周顗はその下で鎮軍長史をつとめた。


琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が江南に入ると、周顗は召し出されて軍諮祭酒となった。寧遠将軍・[[荊州]][[刺史]]・領護南蛮校尉・仮節として出向した。[[311年]]([[永嘉 (晋)|永嘉]]5年)、[[湘州]]で[[杜トウ|杜弢]]の乱が起こった。[[建平郡]]の流民の傅密らが杜弢を迎え入れると、周顗は狼狽して拠点を失った。[[陶侃]]が部将の呉寄に兵を与えて救援させると、周顗は脱出して、豫章の[[王敦]]のもとに逃れた。王敦は軍司の[[戴バク|戴邈]]の反対にも関わらず、周顗を引き留めた。後に揚威将軍・[[兗州]]刺史として司馬睿に召し出された。周顗が[[建康 (都城)|建康]]に入ると、司馬睿は周顗を引き留めて兗州に派遣せず、再び軍諮祭酒とした。まもなく右長史に転じた。[[317年]]([[建武 (東晋)|建武]]元年)、[[東晋]]が建てられると、周顗は吏部尚書に任じられた。ほどなく酒に酔って御史の糾弾を受け、官位を剥奪され、無官のまま吏部の職をつとめることになった。さらに門生が人を傷つけた罪に連座して、職官からも罷免された。
琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]が江南に入ると、周顗は召し出されて軍諮祭酒となった。寧遠将軍・[[荊州]][[刺史]]・領護南蛮校尉・仮節として出向した。[[311年]]([[永嘉 (晋)|永嘉]]5年)、[[湘州]]で[[杜トウ|杜弢]]の乱が起こった。[[建平郡]]の流民の傅密らが杜弢を迎え入れると、周顗は狼狽して拠点を失った。[[陶侃]]が部将の呉寄に兵を与えて救援させると、周顗は脱出して、豫章の[[王敦]]のもとに逃れた。王敦は軍司の[[戴邈]]の反対にも関わらず、周顗を引き留めた。後に揚威将軍・[[兗州]]刺史として司馬睿に召し出された。周顗が[[建康 (都城)|建康]]に入ると、司馬睿は周顗を引き留めて兗州に派遣せず、再び軍諮祭酒とした。まもなく右長史に転じた。[[317年]]([[建武 (東晋)|建武]]元年)、[[東晋]]が建てられると、周顗は吏部尚書に任じられた。ほどなく酒に酔って御史の糾弾を受け、官位を剥奪され、無官のまま吏部の職をつとめることになった。さらに門生が人を傷つけた罪に連座して、職官からも罷免された。


[[318年]]([[大興 (東晋)|大興]]元年)、尚書・太子少傅に任じられた。[[320年]](大興3年)、尚書僕射となった。[[322年]]([[永昌 (東晋)|永昌]]元年)、吏部を領したまま、尚書左僕射となった。
[[318年]]([[大興 (東晋)|大興]]元年)、尚書・太子少傅に任じられた。[[320年]](大興3年)、尚書僕射となった。[[322年]]([[永昌 (東晋)|永昌]]元年)、吏部を領したまま、尚書左僕射となった。

2020年8月1日 (土) 09:15時点における版

周 顗(しゅう ぎ、269年 - 322年)は、中国晋代官僚軍人伯仁本貫汝南郡安成県

経歴

安東将軍の周浚の子として生まれた。若くして名声があり、賁嵩や戴淵らに賞賛された。弱冠にして父の武城侯の爵位を嗣ぎ、秘書郎に任じられ、尚書吏部郎に累進した。東海王司馬越の子の司馬毗が鎮軍将軍となると、周顗はその下で鎮軍長史をつとめた。

琅邪王司馬睿が江南に入ると、周顗は召し出されて軍諮祭酒となった。寧遠将軍・荊州刺史・領護南蛮校尉・仮節として出向した。311年永嘉5年)、湘州杜弢の乱が起こった。建平郡の流民の傅密らが杜弢を迎え入れると、周顗は狼狽して拠点を失った。陶侃が部将の呉寄に兵を与えて救援させると、周顗は脱出して、豫章の王敦のもとに逃れた。王敦は軍司の戴邈の反対にも関わらず、周顗を引き留めた。後に揚威将軍・兗州刺史として司馬睿に召し出された。周顗が建康に入ると、司馬睿は周顗を引き留めて兗州に派遣せず、再び軍諮祭酒とした。まもなく右長史に転じた。317年建武元年)、東晋が建てられると、周顗は吏部尚書に任じられた。ほどなく酒に酔って御史の糾弾を受け、官位を剥奪され、無官のまま吏部の職をつとめることになった。さらに門生が人を傷つけた罪に連座して、職官からも罷免された。

318年大興元年)、尚書・太子少傅に任じられた。320年(大興3年)、尚書僕射となった。322年永昌元年)、吏部を領したまま、尚書左僕射となった。

王敦の乱が起こり、王敦が石頭城を占拠すると、周顗は戴淵・劉隗らとともに石頭城を攻撃して大敗した。周顗は元帝(司馬睿)の命を受けて王敦と会見した。周顗は戴淵とともに王敦に捕らえられ、石頭城の南門の外の石上で殺害された。享年は54。

324年太寧2年)、王敦の死後、周顗は左光禄大夫・儀同三司の位を追贈された。は康といった。

子女

  • 周閔(字は子騫。衡陽郡建安郡臨川郡太守を歴任し、侍中・中領軍・吏部尚書・尚書左僕射となり、中軍将軍の号を加えられた。護軍に転じ、秘書監を兼ねた)
  • 周恬
  • 周頤

伝記資料