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しかし、土木工事で失敗した事から孫晧の怒りを買い、[[交州]]に流罪とされた。この時は、[[華覈]]の取り成しで許され中央に戻っている。しかしその後、再び政争に巻き込まれて交州に流されかけた上、獄中に投獄された。この時は、[[陸抗]]の弁護で許されている。当初の『[[呉書 (孫呉)|呉書]]』(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の呉書とは別)の編者である[[韋昭]]が没し、右国史である華覈が中央から去った後は、彼が編纂の中心人物になったものと思われる。
しかし、土木工事で失敗した事から孫晧の怒りを買い、[[交州]]に流罪とされた。この時は、[[華覈]]の取り成しで許され中央に戻っている。しかしその後、再び政争に巻き込まれて交州に流されかけた上、獄中に投獄された。この時は、[[陸抗]]の弁護で許されている。当初の『[[呉書 (孫呉)|呉書]]』(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の呉書とは別)の編者である[[韋昭]]が没し、右国史である華覈が中央から去った後は、彼が編纂の中心人物になったものと思われる。


呉の滅亡直前には[[光禄勲]]に就いた。[[天紀]]4年([[280年]])、[[西晋]]が呉に侵攻してきた際は([[呉の滅亡 (三国)|晋の呉征伐]])、孫晧に対して降伏する事を勧め、その降伏文書を自らが書いた上で、[[胡沖]]と共に降伏の使者となり、[[司馬チュウ|司馬伷]]・[[王渾]]・[[王濬]]の元へ赴いた。
呉の滅亡直前には[[光禄勲]]に就いた。[[天紀]]4年([[280年]])、[[西晋]]が呉に侵攻してきた際は([[呉の滅亡 (三国)|晋の呉征伐]])、孫晧に対して降伏する事を勧め、その降伏文書を自らが書いた上で、[[胡沖]]と共に降伏の使者となり、[[司馬伷]]・[[王渾]]・[[王濬]]の元へ赴いた。


その後は西晋に仕えて散騎中常侍となり<ref>呉の旧臣の中で、最も早く西晋に仕えたという。</ref>、『[[後漢書]]』百巻([[范曄]]の著物とは別)を編纂している。[[司馬炎|武帝]]から、呉が滅びた原因を尋ねられると「小人を信任し、刑罰を濫発したため、多くの人の不信感を招いた」と回答した。[[太康 (晋)|太康]]3年(282年)に死去した。
その後は西晋に仕えて散騎中常侍となり<ref>呉の旧臣の中で、最も早く西晋に仕えたという。</ref>、『[[後漢書]]』百巻([[范曄]]の著物とは別)を編纂している。[[司馬炎|武帝]]から、呉が滅びた原因を尋ねられると「小人を信任し、刑罰を濫発したため、多くの人の不信感を招いた」と回答した。[[太康 (晋)|太康]]3年(282年)に死去した。

2020年7月31日 (金) 10:20時点における版

薛 瑩(せつ えい、? - 282年)は、中国三国時代の政治家。道言豫州沛郡竹邑県(現在の安徽省宿州市埇橋区)の人。父は薛綜。兄は薛珝。子は薛兼。孫は薛顒。

生涯

呉に仕えて秘書中郎将となり、孫休の代には散騎常侍に、孫晧の代には皇太子の補佐係や左国史に採り立てられた。

しかし、土木工事で失敗した事から孫晧の怒りを買い、交州に流罪とされた。この時は、華覈の取り成しで許され中央に戻っている。しかしその後、再び政争に巻き込まれて交州に流されかけた上、獄中に投獄された。この時は、陸抗の弁護で許されている。当初の『呉書』(『三国志』の呉書とは別)の編者である韋昭が没し、右国史である華覈が中央から去った後は、彼が編纂の中心人物になったものと思われる。

呉の滅亡直前には光禄勲に就いた。天紀4年(280年)、西晋が呉に侵攻してきた際は(晋の呉征伐)、孫晧に対して降伏する事を勧め、その降伏文書を自らが書いた上で、胡沖と共に降伏の使者となり、司馬伷王渾王濬の元へ赴いた。

その後は西晋に仕えて散騎中常侍となり[1]、『後漢書』百巻(范曄の著物とは別)を編纂している。武帝から、呉が滅びた原因を尋ねられると「小人を信任し、刑罰を濫発したため、多くの人の不信感を招いた」と回答した。太康3年(282年)に死去した。

著作集として、他に『新議』八片集三巻があったといわれる。

家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薛綜
 
薛珝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薛瑩
 
薛兼
 
薛顒
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

参考文献

脚注

  1. ^ 呉の旧臣の中で、最も早く西晋に仕えたという。