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「諸葛靚」の版間の差分

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その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。
その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。


諸葛靚は600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。諸葛靚は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに[[司馬チュウ|司馬伷]]に降伏した。
諸葛靚は600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。諸葛靚は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに[[司馬伷]]に降伏した。


呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を[[侍中]]に取り立てようとした。だが彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である[[洛陽]]のある方向を向かなかったという。
呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を[[侍中]]に取り立てようとした。だが彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である[[洛陽]]のある方向を向かなかったという。

2020年7月31日 (金) 10:19時点における版

諸葛 靚(しょかつ せい、生没年不詳)は、中国三国時代に仕えた武将仲思徐州琅邪郡陽都県の出身。諸葛誕の末子。子は諸葛頤中国語版諸葛恢諸葛瑾諸葛亮とは同族にあたる。

の武帝司馬炎とは幼なじみである。

生涯

257年、父の諸葛誕が司馬昭に対して反乱を起こした際、救援を得るための人質として諸葛靚は呉に送られた。翌258年、諸葛誕の乱が鎮圧されると、父は討ち死にし、三族は皆殺しとなった。そのため、行き場を失った諸葛靚はそのまま呉に留まり、仕官することとなった。

孫晧が皇帝に擁立されると、諸葛靚は重用され呉の官職を歴任し、右将軍に昇った。

265年9月、孫晧が建業から荊州武昌に遷都した際、左御史大夫の丁固と共に建業の守りを任された。

266年10月、永安の山賊である施但らが反乱を起こし、孫晧の異母弟である永安侯孫謙を脅迫して同行させ、一万余の徒党を率いて建業に攻め上った。施但は孫謙を皇帝に立てて勅命を出させたが、諸葛靚はただちにその使者を斬った。さらに丁固と共にこれを牛屯で迎え撃って散々に破り、孫謙を保護したが、孫謙は自殺した(『呉書』には孫晧による毒殺とある)。

268年、孫晧に合肥攻撃を命じられ、丁奉と共に軍を進めた。

280年、晋が六方向より大挙して攻めてきたので、諸葛靚は大司馬・副軍師として丞相張悌丹陽太守沈瑩・護軍将軍孫震と共に3万の兵を率いて長江を渡り、晋の城陽都尉である張喬率いる7千の軍を包囲攻撃をしてこれを降伏させた。諸葛靚はこの際、張喬らは切羽詰って援軍が直ぐには来ないために一時的に降伏したに過ぎず、全員穴埋めにして全軍の士気を挙げるべきだと主張したが、聞き入れられなかった。

その後、沈瑩は青巾兵と呼ばれる精鋭5千を率いて晋の軍を攻撃したが、三度攻撃をかけても落とすことは出来ず、撤退しようとしたところで軍が混乱を起こし、それに乗じて晋軍が攻撃を仕掛けてきたため、沈瑩の軍は壊滅した。これを契機とし、呉の他の軍も次々に敗れ去り、一度は降った張喬らもやはり裏切って、背後から呉の軍を攻撃した。

諸葛靚は600の敗残兵を取りまとめて撤退しようとし、張悌の下に共に逃げるように使者を送ったが、張悌はその場を動こうとしなかった。諸葛靚は自ら赴いて張悌の袖を引っ張って説得し、撤退しようとしたが、張悌はこれを拒絶したため、涙を流して袖を離した。張悌はそのまま晋軍に突撃し、戦死した。その後、諸葛靚は孫奕らとともに司馬伷に降伏した。

呉が晋によって滅ぼされると、司馬炎は昔の誼もあり、彼を侍中に取り立てようとした。だが彼は固持して受け入れず、そのまま隠遁してしまった。晋への恨みを忘れず、決して晋の都である洛陽のある方向を向かなかったという。

逸話

朝廷において宴会が催された際、孫晧が「あなたの字は仲思というが、なにを思っているのかね?」と訊ねた。諸葛靚は「家にあっては孝行を思い、君主に対しては忠勤を、朋友に対しては信実を思っております。それだけのことでございます」と答えた。孫晧は満足し、諸葛靚の肩を叩き笑いながら去っていった。

呉が滅んだ後、司馬炎は諸葛靚とどうにかして連絡を取ろうしたが、彼は取り合おうとはしなかった。司馬炎の叔父の司馬伷は、諸葛靚の姉を妃としていた。そこで、司馬炎は諸葛妃に頼みこんで諸葛靚を招かせ、諸葛靚が入るのを見計らって、司馬炎も部屋に入った。諸葛靚が廁まで逃げていくのを、司馬炎は追いかけて顔を合わせた。挨拶がおわり酒がめぐったとき、司馬炎が「今日ようやく再会できた。あなたはかつての竹馬の交わりを覚えているかね?」と訊ねた。諸葛靚は「臣は炭を呑んで漆を身に塗る(恩を受けた人間の仇をとろうとした豫譲の故事)ことができず、今日ふたたびご聖顔を拝することになってしまいました」と言うなり、涙をはらはらと流した。それを見ているうちに、司馬炎は恥ずかしくなり部屋を出ていった。

評価

諸葛靚は文雅端正にして才能徳望があったという。

また、孝行ぶりを極めたものとして後の世にも評判となり、「嵆紹・諸葛靚の二人を見て、はじめて忠孝の道が理解できるのだ」と、称賛を受けた。

家系図

子の諸葛恢は西晋・東晋に仕えた。名臣との呼び声高く、尚書令にまで栄進した。

諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕