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2020年7月31日 (金) 10:02時点における版
司馬 乂(しば がい、277年 - 304年)は、中国の西晋の皇族であり、八王の乱の八王の一人。字は士度。武帝司馬炎の第6子。生母は審美人。
生涯
若き日
289年11月、長沙王に封じられ、員外散騎常侍に任じられた。
290年、父の司馬炎が崩御した。当時、司馬乂は15歳に満たなかったが、亡父を敬慕する様は通常の儀礼の範疇を超越していたという。同母兄の楚王司馬瑋が喪の為に洛陽へ到来すると、各々の藩王はみな近路より彼を出迎えたが、ただ司馬乂だけは陵墓から離れる事なく、司馬瑋が到着するまで悲しみ嘆き続けたという。
後に歩兵校尉に任じられた。
291年6月、司馬瑋は恵帝の皇后賈南風と結託して政変を起こし、恵帝から密詔を得たと偽称して太宰汝南王司馬亮・太保衛瓘の誅殺を宣言した。司馬乂は兄が詔を得たという発言を信じ、その企みに協力して東掖門の制圧に当たった。だが、司馬亮らが殺害された後、ある人が騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を持ってきて、司馬瑋が詔を偽造して独断で両者を殺害したと宣告した。これを聞いた司馬乂は自分が騙されていた事に気づき、弓矢を捨てて涙を流して「楚王(司馬瑋)は詔を受けたと称していた。故に我はこれに従ったのだ。それなのに、これが偽詔だったというのか」と嘆いたという。
同月、司馬瑋が誅殺されると、司馬乂もまた彼の同母弟であった事から常山王に降格となり、封国である常山に赴任した。
三王に協力
301年1月、趙王司馬倫が帝位を簒奪すると、3月には斉王司馬冏・河間王司馬顒・成都王司馬穎が対抗して司馬倫討伐の兵を挙げた。司馬乂もまた常山の軍隊を統率して司馬冏らに呼応し、趙国へ軍を進めた。房子県令は城を固守して司馬乂軍に抵抗したが、司馬乂はこれを破ってその首級を挙げた。さらに進軍を続けて太原内史劉暾と合流すると、共に洛陽へ侵攻中である司馬穎の後援となった。この時、常山内史程恢は密かに謀反を目論んでいたが、司馬乂は鄴都まで到達した時にこれを察知し、先んじて程恢と彼の子5人を誅殺した。やがて討伐軍は勝利し、司馬乂は無事に洛陽に到達した。6月、撫軍大将軍・領左軍将軍に任じられた。
7月、驃騎将軍に任じられ、開府を許されて長沙王に戻された。
司馬倫が失脚して以降、司馬冏が朝政を掌握するようになった。主簿王豹は司馬冏に手紙を送り、諸侯をそれぞれの封国に帰らせ、司馬穎・司馬冏の二人で天下を分けあうよう進言すると、司馬冏は王豹の意見に賛成した。だが、これを知った司馬乂は怒って司馬冏へ「小子(王豹)が骨肉(司馬一族)を離間させようとしている。処刑するべきだ」と述べたので、司馬冏は王豹を逮捕して誅殺した。
やがて司馬冏は権力を自分一人の下に集約するようになり、司馬乂は彼の意図を察知した。ある時、司馬穎と共に先帝の陵墓へ拝したが、この時司馬乂は司馬穎へ「この天下は先帝(司馬炎)が基業を創始したものだ。汝(司馬穎)はしっかりとこれを守らねばならぬ(司馬冏の簒奪を許してはならないという意味)」と述べ、暗に司馬冏の専横を批判したので、この話を聞いた人はみな大いに恐れたという。
司馬冏誅殺
302年、司馬顒は司馬冏討伐を掲げて長安で決起し、檄文を各地に発布した。司馬乂は洛陽城内からこれに呼応し、帷幔を切り裂いて車に乗り込み、側近の百人余りを伴って皇宮へ急行した。到着すると宮門をすべて閉鎖し、恵帝を奉じて司馬冏を討つ事を宣言し、さらに兵を興して司馬冏府を攻めた。司馬冏は配下の董艾を派遣して司馬乂を攻撃させ、自らは宮殿西に陣を構えた。これに対して司馬乂は配下の宋洪らを派遣し、司馬冏府の焼き討ちを命じた。これにより、諸々の観閣や千秋門・神武門が焼き払われた。司馬冏は黄門令王湖に騶虞幡を持ってこさせて「長沙王(司馬乂)が偽の詔を発した」と宣伝させると、司馬乂もまた「大司馬(司馬冏)が謀反した。これを助ける者は、五族を誅す」と宣言した。夕方になると、城内では雨のように矢が飛び交い、炎の勢いは天まで届かん程となった。
両者は三日間に渡って戦い続けたが、最終的に司馬乂が司馬冏を撃ち破ると、大司馬長史趙淵が寝返って司馬冏を捕らえて投降した。司馬乂が恵帝の前に司馬冏を差し出すと、恵帝はこれを助命しようとしたが、司馬乂は近臣を叱責して司馬冏を連れ出し、閶闔門外で処刑した。司馬冏の首は六軍に示され、司馬冏に協力した者達もまた三族を誅滅され、死者は二千人を超えた。
司馬穎・司馬顒との対立
司馬乂はこの後も朝廷に留まったが、好き勝手に朝政を専断する事は無く、政務については全て鄴にいる司馬穎に報告して裁決を任せた。だが、司馬穎は司馬冏討伐の功績を誇って驕奢に耽ったので、司馬冏の時代以上に政治が混乱するようになった。さらに、司馬穎は権力の独占を画策していたので、司馬乂が朝廷に留まっている事を邪魔に思うようになった。
司馬顒は元々、司馬乂の兵が弱小で司馬冏の兵が強大であった事から、司馬乂が司馬冏に敗れるのを期待していた。そして、それを口実に司馬冏を討つよう天下に布告し、それが成った暁には恵帝を廃して司馬穎を擁立し、自らは宰相となって天下を牛耳るのを企んでいた。だが、結果的に司馬乂は司馬冏を撃ち破ったので、彼の目論みは果たされず、これに不満を抱いた。
303年5月、義陽の蛮人である張昌が江夏で反乱を起こすと、司馬歆は上表して救援を請うた。司馬歆は司馬穎に媚び諂っていたので、司馬乂はこの要請を司馬歆と司馬穎の企みではないかと疑ったが、結局豫州刺史劉喬・荊州刺史劉弘・雍州刺史劉沈を救援に向かわせた。
7月、司馬顒配下の李含は司馬乂の参軍皇甫商と対立していたので、その兄の皇甫重が秦州刺史となった事を危険視し、謀殺を目論んだ。皇甫重はこれを事前に察知し、秘かに尚書に手紙を送り、秦州6郡の兵を率いて李含を討伐する許可を求めた。司馬乂はまだ乱を平定したばかりだった事から、混乱の拡大を避けるために皇甫重には兵の解散を命じ、李含を河南尹に任じて長安から遠ざけさせた。李含はこれに従うも皇甫重は拒否したので、司馬顒は金城郡太守游楷・隴西郡太守韓稚らに4郡の兵を率いさせ、冀城の皇甫重を攻撃させた。
また、司馬顒は密かに侍中馮蓀・河南尹李含・中書令卞粋らを洛陽に派遣して司馬乂を襲撃させたが、皇甫商は司馬乂に警戒するよう事前に忠告していたので、司馬乂は彼らを捕らえて処刑した。
洛陽攻防
司馬顒は李含らが殺されたと聞き、これを口実に司馬乂討伐の兵を挙げた。司馬穎は以前から張昌討伐の許可を求めていたが、許可が降りた時には張昌が既に敗れていたので、張昌討伐の兵を使って司馬顒と結託して司馬乂を攻めることにした。また、司馬穎は刺客を派遣して司馬乂の暗殺を目論んだが、司馬乂に近侍していた長沙国左常侍王矩は来客の形相が尋常ではない事に気づき、先手を打って殺害した。
8月、司馬顒と司馬穎が共同で上書し「司馬乂の論功は不公平であり、右僕射羊玄之・左将軍皇甫商と共に朝政を専断し、忠良の臣(李含ら)を殺害しました。羊玄之と皇甫商を誅殺し、司馬乂を封国に還らせるべきです」と述べた。これに対して恵帝は詔を発し「司馬顒は独断で大軍を動員し、京都(洛陽)を侵そうとしている。朕は自ら六軍を率いて姦逆の臣を誅殺する」と述べた。司馬乂は逆臣討伐を命じられ、太尉・大都督・中外諸軍事に任じられた。
司馬顒は張方を都督に任じ、精兵7万を与えて函谷関から洛陽に向かわせた。司馬穎は自ら兵を率いて朝歌に駐軍すると、平原内史陸機を前将軍・前鋒都督に任じ、北中郎将王粋・冠軍将軍牽秀・中護軍石超と20万余りの兵を与えて洛陽を攻めさせた。司馬穎はさらに富平の津河橋まで進軍すると、戦鼓は数百里先まで響き渡った。
司馬乂は皇甫商に1万余りの兵を率いさせて宜陽で張方を防がせたが、敗れ去った。司馬穎は黄河南に進軍して清水に面して砦を築いた。恵帝は自ら軍を率いて洛陽城東から緱氏に入ると、牽秀を攻撃して撤退させた。だが、張方はその隙に洛陽に侵入し、略奪を行って1万人余りを殺傷した後に洛陽を離れた。司馬穎軍の石超が恵帝のいる緱氏に逼迫すると、恵帝は洛陽の宮殿に退却し、司馬乂は進軍してきた牽秀を東陽門外で破った。
司馬穎は将軍馬咸を派遣して陸機軍を援護させると、司馬乂は恵帝を奉じて建春門で陸機と激突した。司馬乂は司馬王瑚に数千騎を与え、馬に戟を着けて馬咸の陣営に突撃させた。馬咸軍は混乱し、王瑚は馬咸を捕らえて殺した。陸機軍は大敗を喫して洛陽東の七里澗に撤退したが、死者は山積みにとなり、川の流れが止まるほどであった。陸機軍の大将賈崇ら16人が殺され、石超は逃走した。その後、陸機は宦官孟玖らから讒言を受けて処刑された。
司馬乂はさらに恵帝を奉じて張方を攻撃すると、張方の兵は皇帝の輿を見て恐れを為して逃走した。これにより張方は大敗を喫し、五千人余りが殺された。張方は十三里橋まで撤退し、秘かに洛陽西七里の場所に砦を築いた。
11月、張方が洛陽城外に砦を築いたと知り、これを攻撃したが落とす事は出来なかった。司馬穎軍は再び洛陽に迫ったが、司馬乂はこれを幾度も破った。
朝廷内では、司馬乂と司馬穎は兄弟であった事から、朝廷では両者に和解する説得させる案が持ち上がった。中書令王衍・光禄勲石陋は司馬穎の下に赴いて説得を試み、全国を二分して統治するよう提案したが、司馬穎は同意しなかった。司馬乂もまた司馬穎に手紙を書いて和解を求めたが、司馬穎は「皇甫商らの首を斬れば兵を率いて鄴に帰る」と返事を送ると、司馬乂もまたこれを拒絶した。
張方は千金堨(洛陽東の堰)を破壊したので、洛陽は水不足に陥った。洛陽城内では王公の奴婢が総動員され、手で米を脱穀して軍用として供給し、1品以下の官員や13歳以上の男子は全て兵役に就くことになった。やがて奴僕も徴兵されるようになり、洛陽は混乱して米1石が1万銭まで高騰した。
驃騎主簿祖逖は司馬乂へ「雍州刺史劉沈は勇敢な忠臣です。雍州の兵を使えば河間を牽制できるでしょう。劉沈に長安の司馬顒を攻撃させれば張方も兵を退くはずです」と勧めると、司馬乂はこれに従った。劉沈は詔を奉じて雍州郡県に檄文を発して諸郡から兵を集めると、7郡の兵1万人余りを率いて長安へ進軍した。司馬乂は同時に皇甫商を西進させ、詔を持って游楷らに皇甫重との戦いを停止するよう伝え、さらに皇甫重にも司馬顒討伐を命じた。しかし、皇甫商は新平に入った時、皇甫商を恨んでいた親族が司馬顒にこの動きを密告したので、司馬顒は皇甫商を捕えて殺した。
尚書令楽広の娘が成都王司馬穎の王妃になると、それを知った司馬乂は楽広が司馬穎に内通しているのではないかと疑った。楽広は司馬乂に疑われた事により憂死した。
304年1月、司馬乂は司馬穎に連勝し、6・7万人を討ち取るか捕縛した。合戦は長期に渡ったので城内は食糧が欠乏したが、司馬乂は人望があって恵帝に対する礼を失したことは一度も無かったため、士卒の心が離れることは無く、みな死に物狂いで奮戦した。張方は洛陽攻略は不可能と判断し、諦めて長安に退却しようと考えるようになった。
最期
東海王司馬越は洛陽城内の食糧状況から司馬乂には勝ち目がないと判断し、夜中に左衛将軍朱黙・殿中諸将と共に司馬乂を捕まえてしまった。翌日、司馬越は恵帝にこの事を報告し、司馬乂の官を免じて金墉城に幽閉するという詔が発せられた。司馬乂は上表して「陛下は温厚で親しみ深く、臣に朝政を託してくださいました。臣は忠誠と孝行を尽くし、こうして陛下と共に神明を知る事が出来ました。ですが、各藩王は讒言で惑わし、兵を率いて臣下を責め、朝臣には忠厚な者がおらず、みな自らの保身を考え、臣下を捕らえて役所に送り、宮中の奥深くに護送して監禁しました。臣は命など惜しんでおりませんが、ただ大晋が衰微するのを憂えております。宗室の枝は葉は尽く切り取られ、陛下もまた孤立するでしょう。もし臣が死ねば恐らく国家は安定し、国家にとっては益となるでしょう。ただ恐れているのは悪人がこれを内心喜んで、陛下が位を降りる事態になる事です」と述べた。
洛陽の城門は開かれて殿中将士は城外に出たが、張方の将兵が疲労して士気が低いことを知り、政変を大いに後悔した。その為、朝廷軍は司馬乂を助け出し、改めて司馬穎・司馬顒に抵抗しようと考えた。司馬越はこれを恐れ、急ぎ司馬乂を殺して将兵を諦めさせようと思い、急ぎ張方と連絡を取り合った。翌日、張方は郅輔に三千の兵を与えて金墉城から司馬乂を連れ出させると、自分の陣営で焼き殺した。司馬乂が無実を訴えて叫ぶ声は周囲に響き渡り、三軍の中で涙を流さない者はいなかったという。その残虐な処刑の方法に、張方の将兵ですら涙を流したという。享年28であった。
司馬乂はすぐに城の東に埋葬され、彼の配下は禍を恐れて誰も葬送する事が出来なかった。ただ、かつて掾属であった劉佑だけが彼を送葬した。喪車を伴って歩くと、激しく泣き叫んだので周囲の人は心を痛めた。張立は劉佑を義士であるとし、一切罪には問わなかった。
評価
司馬乂は身長が七尺五寸あり、明朗で果断であった。また、才知は常人を超越しており、賢士に対しては偏見を持たずに腰を低く接し、名望・声誉は大変高かった。また、朝廷の第一人者となった後も、決して恵帝を蔑ろにする事は無かった。八王はみな国家衰退の元凶として『晋書』では槍玉に挙げられているが、司馬乂だけは国家の忠臣であるとしてその生き様を称賛されている。
逸話
司馬乂が権力を握った時、洛陽城下では「草木が萌芽する頃に長沙は殺される」という謡があった。司馬乂は長沙王であり、春を迎え始める頃(旧暦の1月末日)に殺害されている。この謡の通りであったという。