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[[559年]](天保10年)、常山王[[孝昭帝|高演]]が[[丞相|大丞相]]となると、唐邕は黄門侍郎に任じられた。[[天統 (北斉)|天統]]初年、[[侍中]]・[[并州]]大中正に任じられ、さらに護軍の任を加えられた。後に[[趙州]][[刺史]]として出された。[[568年]](天統4年)、尚書右僕射に任じられた。[[571年]]([[武平 (北斉)|武平]]2年)、尚書左僕射に転じた。[[572年]](武平3年)、[[尚書令]]となり、晋昌王に封じられた。[[574年]](武平5年)、[[高思好]]の乱を討ち、録尚書事となった。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
2020年7月31日 (金) 09:48時点における版
唐 邕(とう よう、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の官僚・政治家。字は道和。本貫は太原郡晋陽県。
経歴
唐霊芝の子として生まれた。532年(太昌元年)、推薦を受けて高歓に仕え、直外兵曹をつとめ、記録を管掌した。筆記や計算を得意とし、記憶力に優れていたため、事務能力を認められて、高澄の下で大将軍府参軍に抜擢された。549年(武定7年)、高澄が晋陽で殺害されると、高洋が夜間に唐邕を召し出して差配させたが、その対処が迅速だったため、唐邕は高洋に重んじられるようになった。北斉が建国されると、文宣帝(高洋)は連年のように出征したが、唐邕は必ずつき従って、軍事の機密を管掌した。556年(天保7年)、羊汾堤で講武がおこなわれると、唐邕は諸軍の節度を総べるよう命じられた。講武が終わると、宴射の礼を取り仕切った。559年(天保10年)、文宣帝に従って晋陽に赴き、給事黄門侍郎・中書舎人を兼ねた。
559年(天保10年)、常山王高演が大丞相となると、唐邕は黄門侍郎に任じられた。天統初年、侍中・并州大中正に任じられ、さらに護軍の任を加えられた。後に趙州刺史として出された。568年(天統4年)、尚書右僕射に任じられた。571年(武平2年)、尚書左僕射に転じた。572年(武平3年)、尚書令となり、晋昌王に封じられた。574年(武平5年)、高思好の乱を討ち、録尚書事となった。
576年(武平7年)、北周の武帝率いる親征軍が侵攻してくると、北斉の丞相の高阿那肱が防戦の指揮に当たったが、唐邕が高阿那肱の命じる分遣を引き受けなかったため、両者の関係は険悪化した。高阿那肱は斛律孝卿を派遣して唐邕を譴責した。後主が晋陽に入ると、斛律孝卿が騎兵の財務を担当して、唐邕の意見が聞き入れられなかったため、唐邕はますます鬱屈した。後主が平陽の戦いに敗れた後、狼狽して鄴都に逃げ帰ると、唐邕は高阿那肱や斛律孝卿らと袂を分かち、晋陽に留まって、莫多婁敬顕らとともに安徳王高延宗を皇帝に擁立した。信宿城が陥落すると、唐邕は北周に降り、儀同大将軍の号を受けた。北周の鳳州刺史となった。隋の開皇初年に死去した。
逸話
- 文宣帝が童子仏寺に登ったとき、并州の城を望んで「これはどの程度の城か」と訊ねると、ある人が「これは金城湯池であり、天府の国です」と答えた。文宣帝は「わたしは唐邕を金城といっているので、これは金城ではないな」と言った。このように文宣帝は唐邕を重んじていた。
- 羊汾堤での講武の日、文宣帝は自ら唐邕の手を取って、婁太后に引き合わせると、丞相の斛律金より上座に置いて、「唐邕は強幹で、1人で1000人に相当します」と太后に申し上げた。
- 唐邕は文宣帝から1日に6度の賜物を贈られたことがあり、帝自ら着ていた青鼠の皮裘を脱いで贈られたこともあった。
- 北斉では月例とは別に月に3回軍民に狩猟を教習させていたが、人馬が疲弊してきたため、唐邕は毎月2回に改めるよう奏上し、武成帝に聞き入れられた。
- 唐邕が趙州刺史となると、武成帝は「朝臣には侍中・護軍・中正を兼ねながら州刺史となった者はいなかった。このたび卿にこのような兼任をさせたのは、卿に百余日の休息を与えて、時が来たなら即座に卿を追いこむためだ」と言った。
妻
- 段氏 - もとは文宣帝高洋の昭儀。