「邢昕」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
改題したのでテンプレートを剥がす |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
尚書郎中の邢偉の子として生まれた。幼くして父を失い、祖母の李氏に養育された。学問を好み、早くから文才を示した。[[524年]]([[正光]]5年)、[[蕭宝寅]]が[[莫折天生]]の乱を討つべく[[関中]]に出征すると、邢昕はその下で東閤祭酒となり、文筆の事務を任された。軍中で盪寇将軍の号を受け、太尉記室参軍に累進した。後に吏部尚書[[李神儁]]の推挙により起居注をつとめた。[[532年]]([[太昌]]元年)、中書侍郎に任じられ、平東将軍・光禄大夫の位を加えられた。ときに僭越の言があり、御史中尉の弾劾を受けて免官され、そのため「述躬賦」を作った。[[533年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]2年)、秘書監の[[常景]]とともに典儀注事をつとめた。[[534年]](永熙3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[釈奠]]の礼を行うと、邢昕は校書郎の[[裴伯茂]]らとともに録義をつとめた。侍読として入朝し、[[温子昇]]・[[魏収]]らとともに詔勅の文章を担当した。東魏が建国されると、郷里の河間に帰ったが、[[ケイ卲|邢卲]]・[[魏季景]]・魏収らとともに[[ |
尚書郎中の邢偉の子として生まれた。幼くして父を失い、祖母の李氏に養育された。学問を好み、早くから文才を示した。[[524年]]([[正光]]5年)、[[蕭宝寅]]が[[莫折天生]]の乱を討つべく[[関中]]に出征すると、邢昕はその下で東閤祭酒となり、文筆の事務を任された。軍中で盪寇将軍の号を受け、太尉記室参軍に累進した。後に吏部尚書[[李神儁]]の推挙により起居注をつとめた。[[532年]]([[太昌]]元年)、中書侍郎に任じられ、平東将軍・光禄大夫の位を加えられた。ときに僭越の言があり、御史中尉の弾劾を受けて免官され、そのため「述躬賦」を作った。[[533年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]2年)、秘書監の[[常景]]とともに典儀注事をつとめた。[[534年]](永熙3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が[[釈奠]]の礼を行うと、邢昕は校書郎の[[裴伯茂]]らとともに録義をつとめた。侍読として入朝し、[[温子昇]]・[[魏収]]らとともに詔勅の文章を担当した。東魏が建国されると、郷里の河間に帰ったが、[[ケイ卲|邢卲]]・[[魏季景]]・魏収らとともに[[鄴|鄴都]]に召し出された。まもなくまた郷里に帰り、さらにまた召し出された。[[537年]](天平4年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の使者の[[劉潜|劉孝儀]]らが東魏に来朝するにあたって、邢昕は兼正員郎として国境まで迎えに行った。後に[[孫騰]]に召されて司徒中郎となり、まもなく通直散騎常侍の位を受け、中軍将軍の号を加えられた。[[540年]]([[興和 (東魏)|興和]]2年)、李象の副使として南朝梁に赴いた。帰国後、[[高澄]]の意向で司徒右長史の任に内定していたが、正式な任命が下る前に、病のため死去した。[[車騎将軍]]・都官尚書・[[冀州]][[刺史]]の位を追贈された。[[諡]]は文といった。生前に著された文章は、文集に収録された。 |
||
== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年7月31日 (金) 09:47時点における版
邢 昕(けい きん、生年不詳 - 540年以降)は、北魏から東魏にかけての官僚・文人。字は子明。本貫は河間郡鄚県。
経歴
尚書郎中の邢偉の子として生まれた。幼くして父を失い、祖母の李氏に養育された。学問を好み、早くから文才を示した。524年(正光5年)、蕭宝寅が莫折天生の乱を討つべく関中に出征すると、邢昕はその下で東閤祭酒となり、文筆の事務を任された。軍中で盪寇将軍の号を受け、太尉記室参軍に累進した。後に吏部尚書李神儁の推挙により起居注をつとめた。532年(太昌元年)、中書侍郎に任じられ、平東将軍・光禄大夫の位を加えられた。ときに僭越の言があり、御史中尉の弾劾を受けて免官され、そのため「述躬賦」を作った。533年(永熙2年)、秘書監の常景とともに典儀注事をつとめた。534年(永熙3年)、孝武帝が釈奠の礼を行うと、邢昕は校書郎の裴伯茂らとともに録義をつとめた。侍読として入朝し、温子昇・魏収らとともに詔勅の文章を担当した。東魏が建国されると、郷里の河間に帰ったが、邢卲・魏季景・魏収らとともに鄴都に召し出された。まもなくまた郷里に帰り、さらにまた召し出された。537年(天平4年)、南朝梁の使者の劉孝儀らが東魏に来朝するにあたって、邢昕は兼正員郎として国境まで迎えに行った。後に孫騰に召されて司徒中郎となり、まもなく通直散騎常侍の位を受け、中軍将軍の号を加えられた。540年(興和2年)、李象の副使として南朝梁に赴いた。帰国後、高澄の意向で司徒右長史の任に内定していたが、正式な任命が下る前に、病のため死去した。車騎将軍・都官尚書・冀州刺史の位を追贈された。諡は文といった。生前に著された文章は、文集に収録された。