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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[李遵]]の子として生まれた。はじめ征東法曹参軍となった。後に奉車都尉に任じられ、寧遠将軍の号を加えられた。[[永熙 (北魏)|永熙]]年間、広陵王[[元欣]]の下で大司馬録事参軍をつとめた。元欣の大司馬府が解散すると、李緯は郷里に帰った。東魏の[[孝静帝]]に召されて冠軍将軍・中散大夫の位を受けた。[[興和 (東魏)|興和]]年間、[[高歓]]の甥の[[高永楽]]が[[済州 (山東省)|済州]][[刺史]]となると、賓客として待遇された。高永楽が死去すると、李緯は葬列を送って[[ギョウ|鄴]]に帰った。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭衍|武帝]]が東魏に遣使してくると、李緯は[[侍中]]の[[李神儁]]に推挙されて尚書南主客郎となり、前後して18人の梁使を接待した。[[高澄]]が吏部尚書を兼ねると、李緯は推挙されて司徒諮議参軍となった。まもなく征虜将軍の号を加えられた。[[547年]]([[武定 (東魏)|武定]]5年)、散騎常侍を兼ね、梁への使者に立った。[[548年]](武定6年)、[[太尉]]の[[高岳 (北斉)|高岳]]が潁川の[[王思政]]を攻撃すると、李緯はその下で大都督司馬となった。凱旋すると、太子家令に任じられた。[[549年]](武定7年)8月、死去した。享年は46。[[北斉]]が建てられると、平東将軍・[[北徐州]][[刺史]]の位を追贈された。[[諡]]は文といった。
[[李遵]]の子として生まれた。はじめ征東法曹参軍となった。後に奉車都尉に任じられ、寧遠将軍の号を加えられた。[[永熙 (北魏)|永熙]]年間、広陵王[[元欣]]の下で大司馬録事参軍をつとめた。元欣の大司馬府が解散すると、李緯は郷里に帰った。東魏の[[孝静帝]]に召されて冠軍将軍・中散大夫の位を受けた。[[興和 (東魏)|興和]]年間、[[高歓]]の甥の[[高永楽]]が[[済州 (山東省)|済州]][[刺史]]となると、賓客として待遇された。高永楽が死去すると、李緯は葬列を送って[[鄴]]に帰った。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭衍|武帝]]が東魏に遣使してくると、李緯は[[侍中]]の[[李神儁]]に推挙されて尚書南主客郎となり、前後して18人の梁使を接待した。[[高澄]]が吏部尚書を兼ねると、李緯は推挙されて司徒諮議参軍となった。まもなく征虜将軍の号を加えられた。[[547年]]([[武定 (東魏)|武定]]5年)、散騎常侍を兼ね、梁への使者に立った。[[548年]](武定6年)、[[太尉]]の[[高岳 (北斉)|高岳]]が潁川の[[王思政]]を攻撃すると、李緯はその下で大都督司馬となった。凱旋すると、太子家令に任じられた。[[549年]](武定7年)8月、死去した。享年は46。[[北斉]]が建てられると、平東将軍・[[北徐州]][[刺史]]の位を追贈された。[[諡]]は文といった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年7月31日 (金) 09:46時点における最新版

李 緯(り い、504年 - 549年)は、北魏から東魏にかけての官人・武人。は乾経。本貫趙郡柏人県

経歴

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李遵の子として生まれた。はじめ征東法曹参軍となった。後に奉車都尉に任じられ、寧遠将軍の号を加えられた。永熙年間、広陵王元欣の下で大司馬録事参軍をつとめた。元欣の大司馬府が解散すると、李緯は郷里に帰った。東魏の孝静帝に召されて冠軍将軍・中散大夫の位を受けた。興和年間、高歓の甥の高永楽済州刺史となると、賓客として待遇された。高永楽が死去すると、李緯は葬列を送ってに帰った。南朝梁武帝が東魏に遣使してくると、李緯は侍中李神儁に推挙されて尚書南主客郎となり、前後して18人の梁使を接待した。高澄が吏部尚書を兼ねると、李緯は推挙されて司徒諮議参軍となった。まもなく征虜将軍の号を加えられた。547年武定5年)、散騎常侍を兼ね、梁への使者に立った。548年(武定6年)、太尉高岳が潁川の王思政を攻撃すると、李緯はその下で大都督司馬となった。凱旋すると、太子家令に任じられた。549年(武定7年)8月、死去した。享年は46。北斉が建てられると、平東将軍・北徐州刺史の位を追贈された。は文といった。

伝記資料

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