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「胡皇后 (北斉後主)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
隴東王[[胡長仁]]の娘として生まれた。叔母の[[胡皇后 (北斉武成帝)|胡太后]](後主の生母)により宮中に入れられ、弘徳夫人に立てられた。[[昭儀|左昭儀]]に進み、後主の寵愛を受けた。[[572年]]([[武平 (北斉)|武平]]3年)8月、[[斛律皇后]]が廃位されると、[[陸令萱]]が[[穆邪利|穆夫人]]を皇后に立てようと画策したが、胡太后が許さなかった。[[祖テイ|祖珽]]が胡昭儀を皇后に立てるよう請願し、ついに皇后に立てられた。しかし皇后自身は穆夫人が皇后にふさわしいと考え、胡太后の意見に反対したため、胡太后の怒りを買って、その髪を剃られ、家に送り返された。この年の12月に廃位された。後主は胡氏の身を思いやって、事あるごとに物を贈って意を示した。[[577年]]([[承光 (北斉)|承光]]元年)、胡氏は廃皇后斛律氏とともに宮中に召し入れられたが、数日のうちに[[ギョウ|鄴]]は[[北周]]軍の攻撃により陥落した。後に胡氏は再嫁した。
隴東王[[胡長仁]]の娘として生まれた。叔母の[[胡皇后 (北斉武成帝)|胡太后]](後主の生母)により宮中に入れられ、弘徳夫人に立てられた。[[昭儀|左昭儀]]に進み、後主の寵愛を受けた。[[572年]]([[武平 (北斉)|武平]]3年)8月、[[斛律皇后]]が廃位されると、[[陸令萱]]が[[穆邪利|穆夫人]]を皇后に立てようと画策したが、胡太后が許さなかった。[[祖テイ|祖珽]]が胡昭儀を皇后に立てるよう請願し、ついに皇后に立てられた。しかし皇后自身は穆夫人が皇后にふさわしいと考え、胡太后の意見に反対したため、胡太后の怒りを買って、その髪を剃られ、家に送り返された。この年の12月に廃位された。後主は胡氏の身を思いやって、事あるごとに物を贈って意を示した。[[577年]]([[承光 (北斉)|承光]]元年)、胡氏は廃皇后斛律氏とともに宮中に召し入れられたが、数日のうちに[[鄴]]は[[北周]]軍の攻撃により陥落した。後に胡氏は再嫁した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年7月31日 (金) 09:43時点における版

胡皇后
北斉の皇后
在位 572年

配偶者 後主高緯
氏族 安定胡氏
父親 胡長仁
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胡皇后(ここうごう、生没年不詳)は、北斉後主の2人目の皇后本貫安定郡臨涇県

経歴

隴東王胡長仁の娘として生まれた。叔母の胡太后(後主の生母)により宮中に入れられ、弘徳夫人に立てられた。左昭儀に進み、後主の寵愛を受けた。572年武平3年)8月、斛律皇后が廃位されると、陸令萱穆夫人を皇后に立てようと画策したが、胡太后が許さなかった。祖珽が胡昭儀を皇后に立てるよう請願し、ついに皇后に立てられた。しかし皇后自身は穆夫人が皇后にふさわしいと考え、胡太后の意見に反対したため、胡太后の怒りを買って、その髪を剃られ、家に送り返された。この年の12月に廃位された。後主は胡氏の身を思いやって、事あるごとに物を贈って意を示した。577年承光元年)、胡氏は廃皇后斛律氏とともに宮中に召し入れられたが、数日のうちに北周軍の攻撃により陥落した。後に胡氏は再嫁した。

伝記資料