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幼いころ高歓に「わが家の千里駒なり」と評された。[[550年]]、北斉が建てられると、馮翊王に封ぜられた。間もなく[[侍中]]・開府儀同三司に任ぜられた。東北道大行台尚書左僕射・[[定州]][[刺史]]となった。刺史のまま都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。しばらくして尚書左僕射となった。高潤の容姿は美しく、14、5歳で母の鄭妃と同衾し、不倫のことがあったと噂された。高潤は成長すると官吏の仕事を習いおぼえて、不正の摘発に力をそそいだ。王迴洛と独孤枝が官田を侵奪して賄賂を受けた事件を摘発して、[[武成帝]]に賞賛された。[[尚書令]]となり、太子少師を兼ね、[[司徒]]・[[太尉]]・[[大司馬]]・司州牧・[[太保]]・河南道行台録尚書事を歴任した。[[太師]]・[[太宰]]をつとめ、再び定州刺史となった。[[575年]]8月22日、死去した。享年は30。仮黄鉞・左丞相の位を追贈された。[[諡]]は文昭といった。[[576年]]2月11日、[[ |
幼いころ高歓に「わが家の千里駒なり」と評された。[[550年]]、北斉が建てられると、馮翊王に封ぜられた。間もなく[[侍中]]・開府儀同三司に任ぜられた。東北道大行台尚書左僕射・[[定州]][[刺史]]となった。刺史のまま都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。しばらくして尚書左僕射となった。高潤の容姿は美しく、14、5歳で母の鄭妃と同衾し、不倫のことがあったと噂された。高潤は成長すると官吏の仕事を習いおぼえて、不正の摘発に力をそそいだ。王迴洛と独孤枝が官田を侵奪して賄賂を受けた事件を摘発して、[[武成帝]]に賞賛された。[[尚書令]]となり、太子少師を兼ね、[[司徒]]・[[太尉]]・[[大司馬]]・司州牧・[[太保]]・河南道行台録尚書事を歴任した。[[太師]]・[[太宰]]をつとめ、再び定州刺史となった。[[575年]]8月22日、死去した。享年は30。仮黄鉞・左丞相の位を追贈された。[[諡]]は文昭といった。[[576年]]2月11日、[[鄴]]城の西北30里の釜水の南に葬られた。 |
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子の高茂徳が後を嗣いだ。 |
子の高茂徳が後を嗣いだ。 |
2020年7月31日 (金) 09:39時点における版
高 潤(こう じゅん、546年 - 575年)は、中国の北斉の皇族。馮翊王。高歓の十四男。母は鄭大車。字は子沢。
経歴
幼いころ高歓に「わが家の千里駒なり」と評された。550年、北斉が建てられると、馮翊王に封ぜられた。間もなく侍中・開府儀同三司に任ぜられた。東北道大行台尚書左僕射・定州刺史となった。刺史のまま都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。しばらくして尚書左僕射となった。高潤の容姿は美しく、14、5歳で母の鄭妃と同衾し、不倫のことがあったと噂された。高潤は成長すると官吏の仕事を習いおぼえて、不正の摘発に力をそそいだ。王迴洛と独孤枝が官田を侵奪して賄賂を受けた事件を摘発して、武成帝に賞賛された。尚書令となり、太子少師を兼ね、司徒・太尉・大司馬・司州牧・太保・河南道行台録尚書事を歴任した。太師・太宰をつとめ、再び定州刺史となった。575年8月22日、死去した。享年は30。仮黄鉞・左丞相の位を追贈された。諡は文昭といった。576年2月11日、鄴城の西北30里の釜水の南に葬られた。
子の高茂徳が後を嗣いだ。