コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「高保寧」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ギョウ」→「鄴」が記事名を含まれる記事の改名に伴うリンク修正依頼 (鄴) - log
2行目: 2行目:


==経歴==
==経歴==
[[武平 (北斉)|武平]]末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。[[北周]]の軍が北斉の都の[[ギョウ|鄴]]に迫ると、[[幽州]]行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は[[契丹]]・[[靺鞨]]の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃が[[大興区|薊]]をすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の[[武帝 (北周)|武帝]]が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王[[高紹義]]が[[突厥]]の保護の下で、北斉の[[皇帝]]を称すると、保寧は[[丞相]]に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の[[宇文神挙]]が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった。
[[武平 (北斉)|武平]]末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。[[北周]]の軍が北斉の都の[[鄴]]に迫ると、[[幽州]]行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は[[契丹]]・[[靺鞨]]の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃が[[大興区|薊]]をすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の[[武帝 (北周)|武帝]]が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王[[高紹義]]が[[突厥]]の保護の下で、北斉の[[皇帝]]を称すると、保寧は[[丞相]]に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の[[宇文神挙]]が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった。


[[583年]]、部下に殺された。
[[583年]]、部下に殺された。

2020年7月31日 (金) 09:38時点における版

高 保寧(こう ほねい、生年不詳 - 583年)は、中国北斉軍人。高宝寧とも書かれる。本貫代郡

経歴

武平末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。北周の軍が北斉の都のに迫ると、幽州行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は契丹靺鞨の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃がをすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の武帝が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王高紹義突厥の保護の下で、北斉の皇帝を称すると、保寧は丞相に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の宇文神挙が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった。

583年、部下に殺された。

伝記資料

  • 北斉書』巻四十一 列伝第三十三
  • 北史』巻五十三 列伝第四十一