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[[武平 (北斉)|武平]]末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。[[北周]]の軍が北斉の都の[[鄴]]に迫ると、[[幽州]]行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は[[契丹]]・[[靺鞨]]の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃が[[大興区|薊]]をすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の[[武帝 (北周)|武帝]]が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王[[高紹義]]が[[突厥]]の保護の下で、北斉の[[皇帝]]を称すると、保寧は[[丞相]]に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の[[宇文神挙]]が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった。 |
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2020年7月31日 (金) 09:38時点における版
高 保寧(こう ほねい、生年不詳 - 583年)は、中国の北斉の軍人。高宝寧とも書かれる。本貫は代郡。
経歴
武平末年、北斉の営州刺史となり、黄龍に駐屯した。北周の軍が北斉の都の鄴に迫ると、幽州行台の潘子晃が黄龍の兵を召集したので、保寧は契丹・靺鞨の1万騎あまりを率いて救援に向かった。北平にいたって、潘子晃が薊をすでに出発したと知り、また鄴都が陥落したと聞いて、営州に帰還した。北周の武帝が招諭の使者を派遣してきたが、その勅書を受け取らなかった。范陽王高紹義が突厥の保護の下で、北斉の皇帝を称すると、保寧は丞相に任ぜられた。盧昌期が范陽城に拠って起兵すると、保寧は高紹義の兵数万騎を率いて救援に向かった。潞河にいたって、北周の将軍の宇文神挙が范陽を落としたことを知ると、保寧は黄龍に帰り、北周に仕えようとはしなかった。
583年、部下に殺された。