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張保洛の家は代々賓客を好み、任侠を尊んで、北方の土地に知られた。[[六鎮の乱]]が起こると、保洛は人々を率いて南下し、[[葛栄]]に従って、領左右となった。[[528年]]、葛栄が敗れると、[[爾朱栄]]の下で統軍となり、揚烈将軍・奉車都尉に累進した。後に[[高歓]]に属して[[都督]]となり、紇豆陵歩藩を討った。
張保洛の家は代々賓客を好み、任侠を尊んで、北方の土地に知られた。[[六鎮の乱]]が起こると、保洛は人々を率いて南下し、[[葛栄]]に従って、領左右となった。[[528年]]、葛栄が敗れると、[[爾朱栄]]の下で統軍となり、揚烈将軍・奉車都尉に累進した。後に[[高歓]]に属して[[都督]]となり、紇豆陵歩藩を討った。


[[531年]]、高歓が起兵すると、保洛はその幕下に入り、[[爾朱兆]]を広阿で討った。まもなく[[右将軍]]・中散大夫に転じ、高歓の下で[[ギョウ|鄴]]城を包囲し、陥落すると、平南将軍・[[光禄大夫]]の位を受けた。[[532年]]、爾朱氏を韓陵で破り、高歓が[[洛陽]]に入ると、保洛は安東将軍の位を加えられた。
[[531年]]、高歓が起兵すると、保洛はその幕下に入り、[[爾朱兆]]を広阿で討った。まもなく[[右将軍]]・中散大夫に転じ、高歓の下で[[鄴]]城を包囲し、陥落すると、平南将軍・[[光禄大夫]]の位を受けた。[[532年]]、爾朱氏を韓陵で破り、高歓が[[洛陽]]に入ると、保洛は安東将軍の位を加えられた。


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[[534年]]、[[北魏]]の[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が高歓と険悪になると、儀同の[[賈顕智]]に[[済州 (山東省)|済州]]におもむかせた。高歓は大都督の[[竇泰]]に滑台から渡河させて賈顕智をはばませ、保洛を竇泰の下の先鋒とした。

2020年7月31日 (金) 09:36時点における版

張 保洛(ちょう ほらく、生没年不詳)は、中国東魏北斉軍人代郡の人。自身は南陽郡西鄂県の出身と称していた。

経歴

張保洛の家は代々賓客を好み、任侠を尊んで、北方の土地に知られた。六鎮の乱が起こると、保洛は人々を率いて南下し、葛栄に従って、領左右となった。528年、葛栄が敗れると、爾朱栄の下で統軍となり、揚烈将軍・奉車都尉に累進した。後に高歓に属して都督となり、紇豆陵歩藩を討った。

531年、高歓が起兵すると、保洛はその幕下に入り、爾朱兆を広阿で討った。まもなく右将軍・中散大夫に転じ、高歓の下で城を包囲し、陥落すると、平南将軍・光禄大夫の位を受けた。532年、爾朱氏を韓陵で破り、高歓が洛陽に入ると、保洛は安東将軍の位を加えられた。

534年北魏孝武帝が高歓と険悪になると、儀同の賈顕智済州におもむかせた。高歓は大都督の竇泰に滑台から渡河させて賈顕智をはばませ、保洛を竇泰の下の先鋒とした。

536年、万俟洛が東魏に降ると、高歓は保洛と諸将を派遣して道中の安全を確保させた。538年、保洛は大都督・西夏州刺史に任じられ、安武県伯に封じられた。蔚州刺史を代行した。高歓に従って宇文泰と邙山で戦い、玉壁を包囲し、龍門を攻撃した。帰還すると、晋州に駐屯した。

547年高澄が高歓の後を継ぐと、保洛は左廂大都督となった。後に晋州に出向して、征西将軍を加えられた。549年西魏王思政が潁川に入ると、東魏軍がこれを包囲したが勝利できなかった。高澄は保洛に楊志塢に駐屯させ、陽州と掎角の勢を成させた。潁川が平定されるとまもなく、保洛は梁州刺史に任じられた。

550年、北斉が建国されると、保洛は刺史のまま開府を加えられた。収奪が激しく、州の民衆や官吏に怨まれた。559年滄州刺史として出向し、敷城郡王に封じられた。州における収奪のため、免官され、王爵を削られた。死去すると、前官を贈られ、本封を追復された。

子の張黙言が後を嗣いだ。

伝記資料