張保洛
張 保洛(ちょう ほらく、生没年不詳)は、中国の北魏末から北斉にかけての軍人。代郡の人。自身は南陽郡西鄂県の出身と称していた[1][2]。
経歴
[編集]張保洛の家は代々賓客を好み、任侠を尊んで、北方の土地に知られた。六鎮の乱が起こると、保洛は人々を率いて南下し、葛栄に従って、領左右となった。永安元年(528年)、葛栄が敗れると、爾朱栄の下で統軍となり、揚烈将軍・奉車都尉に累進した。後に高歓に属して都督となり、紇豆陵歩藩を討った[1][2]。
普泰元年(531年)、高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、保洛はその幕下に入り、爾朱兆を広阿で討った。まもなく右将軍・中散大夫に転じた。中興2年(532年)、高歓の下で鄴城を包囲し、これを陥落させると、平南将軍・光禄大夫の位を受けた。高歓が韓陵の戦いで爾朱氏を破り、洛陽に入ると、保洛は安東将軍の位を加えられた[1][2]。
永熙3年(534年)、北魏の孝武帝が高歓と険悪になると、儀同の賈顕智に済州におもむかせた。高歓は大都督の竇泰に滑台から渡河させて賈顕智をはばませ、保洛を竇泰の下の先鋒とした。
天平3年(536年)、万俟洛が東魏に降ると、高歓は保洛と諸将を派遣して道中の安全を確保させた。元象元年(538年)、保洛は大都督・西夏州刺史に任じられ、安武県伯に封じられた。蔚州刺史を代行した。武定年間、高歓に従って宇文泰と邙山で戦い、玉壁を包囲し、龍門を攻撃した。帰還すると、晋州に駐屯した[1][2]。
武定5年(547年)、高澄が高歓の後を継ぐと、保洛は左廂大都督となった。後に晋州に出向して、征西将軍の号を加えられた。武定7年(549年)、西魏の王思政が潁川に入ると、東魏軍がこれを包囲したが勝利できなかった。高澄は保洛に楊志塢に駐屯させ、陽州と掎角の勢を成させた。潁川が平定されるとまもなく、保洛は梁州刺史に任じられた[1][2]。
天保元年(550年)、北斉が建国されると、保洛は刺史のまま開府を加えられた。収奪が激しく、州の民衆や官吏に怨まれた。天保10年(559年)、滄州刺史として出向し、敷城郡王に封じられた。州における収奪のため、免官され、王爵を削られた。死去すると、前官を贈られ、本封を追復された[1][2]。
子の張黙言が後を嗣ぎ、武平末年に衛将軍となった[1][3]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。