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劉乾の子として生まれた。[[爾朱栄]]の下で騎兵参軍を務めた。[[528年]]、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。[[左将軍]]・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍を加えられた。[[530年]]、[[涼州]][[刺史]]となった。
劉乾の子として生まれた。[[爾朱栄]]の下で騎兵参軍を務めた。[[528年]]、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。[[左将軍]]・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍を加えられた。[[530年]]、[[涼州]][[刺史]]となった。


長広王[[元曄]]が即位し、[[爾朱世隆]]が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の[[元顕恭]]と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。[[晋州]]刺史に任じられた。[[531年]]、行[[隰州|汾州]]事に転じた。[[高歓]]が起兵すると、劉貴は城を棄てて[[ギョウ|鄴]]におもむき、高歓に帰順した。[[532年]]、本官のまま[[肆州]]刺史に任ぜられ、行[[建州]]事に転じた。[[534年]]、[[陝州]]刺史となった。
長広王[[元曄]]が即位し、[[爾朱世隆]]が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の[[元顕恭]]と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。[[晋州]]刺史に任じられた。[[531年]]、行[[隰州|汾州]]事に転じた。[[高歓]]が起兵すると、劉貴は城を棄てて[[鄴]]におもむき、高歓に帰順した。[[532年]]、本官のまま[[肆州]]刺史に任ぜられ、行[[建州]]事に転じた。[[534年]]、[[陝州]]刺史となった。


[[537年]]、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、[[侯景]]・[[高昂]]らとともに[[独孤信]]を[[洛陽]]で攻撃した。[[539年]]11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・[[太保]]・[[太尉|太尉公]]・[[録尚書事]]・[[冀州]]刺史の位を追贈され、[[諡]]を忠武といった。
[[537年]]、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、[[侯景]]・[[高昂]]らとともに[[独孤信]]を[[洛陽]]で攻撃した。[[539年]]11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・[[太保]]・[[太尉|太尉公]]・[[録尚書事]]・[[冀州]]刺史の位を追贈され、[[諡]]を忠武といった。

2020年7月31日 (金) 09:35時点における版

劉 貴(りゅう き、? - 539年)は、中国東魏の軍人。本貫秀容郡陽曲県

経歴

劉乾の子として生まれた。爾朱栄の下で騎兵参軍を務めた。528年、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。左将軍・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍を加えられた。530年涼州刺史となった。

長広王元曄が即位し、爾朱世隆が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の元顕恭と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。晋州刺史に任じられた。531年、行汾州事に転じた。高歓が起兵すると、劉貴は城を棄ててにおもむき、高歓に帰順した。532年、本官のまま肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。534年陝州刺史となった。

537年、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、侯景高昂らとともに独孤信洛陽で攻撃した。539年11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・太保太尉公録尚書事冀州刺史の位を追贈され、を忠武といった。

子に劉元孫・劉洪徽がいた。劉元孫は員外郎・肆州中正となり、早逝した。劉洪徽が後を嗣ぎ、仮の儀同三司となって、奏門下事をつとめた。

伝記資料