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臧覇と共に挙兵し、[[陶謙]]に従って[[黄巾賊]]を討伐したことで、[[騎都尉]]に任命された。その後、[[呉敦]]・[[尹礼]]と共に臧覇を指導者と仰ぎ、開陽に駐屯した。[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、[[曹操]]が[[呂布]]を滅ぼすと、先に降っていた臧覇の招請を受け、孫観も兄らと共に曹操配下となる。臧覇が[[琅邪郡|琅邪]]国相に任命されると、孫観は[[北海郡|北海]][[太守]]、兄も城陽太守にそれぞれ任命されるという厚遇を受けた。 |
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孫観は臧覇と共に[[徐州]]・[[青州 (山東省)|青州]]の賊討伐に従事し、常に先陣を切って戦うことで臧覇に次ぐ功績を挙げ、呂都亭侯に任命された。建安10年([[205年]])春、曹操が南皮の[[袁譚]]を攻略した際には、臧覇と共に自身の子弟を人質として[[ |
孫観は臧覇と共に[[徐州]]・[[青州 (山東省)|青州]]の賊討伐に従事し、常に先陣を切って戦うことで臧覇に次ぐ功績を挙げ、呂都亭侯に任命された。建安10年([[205年]])春、曹操が南皮の[[袁譚]]を攻略した際には、臧覇と共に自身の子弟を人質として[[鄴]]に住まわせたことで、偏将軍に任命され、青州[[刺史]]に異動となった。濡須口で[[孫権]]を討伐した際には、仮節を授けられた<ref>曹操による濡須口攻撃は、建安18年([[213年]])と建安22年([[217年]])の2回が記録されている。どちらにおいて孫観が仮節を授けられたかは不明。</ref>。孫権との戦いの最中に流れ矢で左足を負傷したが、力戦奮闘し曹操の賞賛と慰労を受けた。この軍功により振威将軍となったが、矢傷の重さから、まもなく死去した。 |
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== 注 == |
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2020年7月31日 (金) 09:32時点における版
孫観 | |
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後漢 呂都亭侯・青州刺史・振威将軍 | |
出生 |
生年不詳 兗州泰山郡 |
死去 | 建安18年(213年)また同22年(217年) |
拼音 | Sūn Guān |
字 | 仲台 |
別名 | 嬰子 |
主君 | 陶謙→臧覇→曹操 |
孫 観(そん かん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。字は仲台。兗州泰山郡の人。兄は孫康。子は孫毓。『三国志』魏書臧覇伝の注に引く『魏略』によれば、「嬰子」という別名も有していたという。
正史の事跡
孫観に関する記述は、同伝の注に引く『魏書』の内容が最も詳しい。
臧覇と共に挙兵し、陶謙に従って黄巾賊を討伐したことで、騎都尉に任命された。その後、呉敦・尹礼と共に臧覇を指導者と仰ぎ、開陽に駐屯した。建安3年(198年)、曹操が呂布を滅ぼすと、先に降っていた臧覇の招請を受け、孫観も兄らと共に曹操配下となる。臧覇が琅邪国相に任命されると、孫観は北海太守、兄も城陽太守にそれぞれ任命されるという厚遇を受けた。
孫観は臧覇と共に徐州・青州の賊討伐に従事し、常に先陣を切って戦うことで臧覇に次ぐ功績を挙げ、呂都亭侯に任命された。建安10年(205年)春、曹操が南皮の袁譚を攻略した際には、臧覇と共に自身の子弟を人質として鄴に住まわせたことで、偏将軍に任命され、青州刺史に異動となった。濡須口で孫権を討伐した際には、仮節を授けられた[1]。孫権との戦いの最中に流れ矢で左足を負傷したが、力戦奮闘し曹操の賞賛と慰労を受けた。この軍功により振威将軍となったが、矢傷の重さから、まもなく死去した。
注
物語中の孫観
小説『三国志演義』では、当初臧覇の部下ではなく、呉敦・尹礼・昌豨と共に泰山の山賊として扱われている。曹操と呂布の最終決戦に際して、呂布と同盟を結び蕭関を守備したが、曹操軍に敗れてしまう。呂布滅亡後、臧覇の説得を受け曹操に降伏するが、その後は作中に登場しない。
参考文献
関連人物
- 主君、同僚、盟友