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7月、[[天京攻防戦]]で天京が陥落すると[[江蘇省]][[高淳区|東壩]]に逃れ、[[安徽省]][[広徳県|広徳]]を経て[[浙江省]][[湖州市|湖州]]に移る。8月末[[江西省|江西]]、[[広東省]]、[[福建省]]一帯で活動していた[[李世賢]]のもとへ向かうが、[[10月9日]]清軍の待ち伏せに遭い敗れ、さらに逃亡を図った。
7月、[[天京攻防戦]]で天京が陥落すると[[江蘇省]][[高淳区|東壩]]に逃れ、[[安徽省]][[広徳県|広徳]]を経て[[浙江省]][[湖州市|湖州]]に移る。8月末[[江西省|江西]]、[[広東省]]、[[福建省]]一帯で活動していた[[李世賢]]のもとへ向かうが、[[10月9日]]清軍の待ち伏せに遭い敗れ、さらに逃亡を図った。


だが、[[10月25日]][[江西]][[石城]]荒山で捕らえられ、[[11月18日]]に江西[[巡撫]][[沈葆テイ|沈葆楨]]によって[[南昌市|南昌]]で[[凌遅刑]]によって処刑された。満15歳を目前にした刑死であり、凌遅刑に処せられた最若年記録とされる。
だが、[[10月25日]][[江西]][[石城]]荒山で捕らえられ、[[11月18日]]に江西[[巡撫]][[沈葆楨]]によって[[南昌市|南昌]]で[[凌遅刑]]によって処刑された。満15歳を目前にした刑死であり、凌遅刑に処せられた最若年記録とされる。


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2020年7月26日 (日) 10:40時点における版

幼天王 洪天貴福
太平天国
第2代天王
ファイル:Hong Tianguifu.png
洪 天貴福 彼らの結婚で
王朝 太平天国
在位期間 1864年6月 - 10月
姓・諱 洪天貴→天貴福
生年 道光29年10月9日
1849年11月23日
没年 同治3年10月20日
1864年11月18日
洪秀全
頼蓮英
后妃 黄氏
黄氏
侯氏
張氏

洪 天貴福(こう てんきふく、拼音: Hóng Tiānguìfú)は太平天国の第2代天王。初代天王洪秀全の長男。初名を天貴としていたが、後にの字が加えられた。

生涯

道光30年(1851年)に洪秀全太平天国を建国すると幼主に立てられ、同治3年5月3日1864年6月6日)、父の死後に天京(南京)にて幼天王として即位した。

7月、天京攻防戦で天京が陥落すると江蘇省東壩に逃れ、安徽省広徳を経て浙江省湖州に移る。8月末江西広東省福建省一帯で活動していた李世賢のもとへ向かうが、10月9日清軍の待ち伏せに遭い敗れ、さらに逃亡を図った。

だが、10月25日江西石城荒山で捕らえられ、11月18日に江西巡撫沈葆楨によって南昌凌遅刑によって処刑された。満15歳を目前にした刑死であり、凌遅刑に処せられた最若年記録とされる。

先代
洪秀全
太平天国の第2代天王
1864年
次代
滅亡