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その後、反乱の鎮圧などで功績を挙げ、討寇将軍・[[特進]]へ昇進し、臨涇侯に封じられた。[[曹丕]]が[[献帝 (漢)|献帝]]より禅譲を受け[[魏 (三国)|魏]]の時代になり、[[郭淮]]が[[曹真]]の長史として征羌護軍を兼ねると、楊秋は張郃と共にその監督下に入ったという。 |
2020年7月26日 (日) 09:19時点における版
楊 秋(よう しゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。
事跡
馬超・韓遂が曹操に敵対したとき、共に蜂起した軍閥の一人として名前が見える。建安年間の初め頃から、何度か部下の孔桂を曹操の下へ派遣した形跡がある。
211年10月、夏侯淵・張郃に降伏し、以前と同じ爵位を与えられた。
その後、反乱の鎮圧などで功績を挙げ、討寇将軍・特進へ昇進し、臨涇侯に封じられた。曹丕が献帝より禅譲を受け魏の時代になり、郭淮が曹真の長史として征羌護軍を兼ねると、楊秋は張郃と共にその監督下に入ったという。
小説『三国志演義』では、韓遂の「手下八部」の武将の一人として登場する。馬超と韓遂が仲違いした際には、韓遂の降参の使者として曹操の下に参じ、列侯に採り立てられている。なお、演義で登場する「手下八部」(他の7名は侯選・張横・程銀・成宜・李堪・馬玩・梁興)は、正史にその名が登場する涼州の独立した軍閥の者達である。