コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「郭淮」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
{{出典の明記|date=2019年4月}}
Cewbot (会話 | 投稿記録)
26行目: 26行目:
[[曹丕]]が[[光禄勲|五官将]]になると、郭淮は召し出され門下賊曹に加えられたが、間もなく[[曹操]]へ付き[[漢中郡|漢中]]征伐に随行した。漢中制圧後は[[夏侯淵]]の司馬としてその地に残り、ともに[[劉備]]に備えたが、劉備軍侵攻の際は病気で参戦していなかった。
[[曹丕]]が[[光禄勲|五官将]]になると、郭淮は召し出され門下賊曹に加えられたが、間もなく[[曹操]]へ付き[[漢中郡|漢中]]征伐に随行した。漢中制圧後は[[夏侯淵]]の司馬としてその地に残り、ともに[[劉備]]に備えたが、劉備軍侵攻の際は病気で参戦していなかった。


[[219年]]、[[定軍山の戦い]]で夏侯淵が討たれると軍内は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、[[杜襲]]と協力して[[張コウ (曹魏)|張郃]]に司令官を代行させ、機略でもって劉備の侵攻を防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃に仮節し漢中駐留軍の司令官とした上で、郭淮をその司馬に任じた。
[[219年]]、[[定軍山の戦い]]で夏侯淵が討たれると軍内は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、[[杜襲]]と協力して[[張郃]]に司令官を代行させ、機略でもって劉備の侵攻を防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃に仮節し漢中駐留軍の司令官とした上で、郭淮をその司馬に任じた。


220年、曹丕が王位についた時、郭淮は[[関内侯]]の爵位を与えられ、鎮西長史([[曹真]]の長史)に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し張郃・[[楊秋]]を監督した。周辺の賊を討伐し、[[関中]]に平和をもたらし、民衆を安んじた。
220年、曹丕が王位についた時、郭淮は[[関内侯]]の爵位を与えられ、鎮西長史([[曹真]]の長史)に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し張郃・[[楊秋]]を監督した。周辺の賊を討伐し、[[関中]]に平和をもたらし、民衆を安んじた。

2020年7月26日 (日) 09:17時点における版

郭淮

車騎将軍・雍州刺史・陽曲侯
出生 不詳
并州太原郡陽曲県
死去 正元2年(255年
拼音 Guō Huái
伯済
諡号 貞侯
主君 曹操曹丕曹叡曹芳
テンプレートを表示

郭 淮(かく わい、? - 255年)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。に仕えた。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。伯済并州太原郡陽曲県の人。祖父は郭全。父は郭縕。弟は郭配(賈充裴秀の妻の父)・郭鎮。子は郭統。孫は郭正。甥は郭奕。姪は郭槐賈南風の母)。

生涯

建安年間(196年 - 220年)に孝廉で推挙され、平原の丞となった。

曹丕五官将になると、郭淮は召し出され門下賊曹に加えられたが、間もなく曹操へ付き漢中征伐に随行した。漢中制圧後は夏侯淵の司馬としてその地に残り、ともに劉備に備えたが、劉備軍侵攻の際は病気で参戦していなかった。

219年定軍山の戦いで夏侯淵が討たれると軍内は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、杜襲と協力して張郃に司令官を代行させ、機略でもって劉備の侵攻を防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃に仮節し漢中駐留軍の司令官とした上で、郭淮をその司馬に任じた。

220年、曹丕が王位についた時、郭淮は関内侯の爵位を与えられ、鎮西長史(曹真の長史)に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し張郃・楊秋を監督した。周辺の賊を討伐し、関中に平和をもたらし、民衆を安んじた。

同年、曹丕(文帝)が帝位に就くと祝賀に出向いたが、彼は都へ向かう途上で病気に罹ったため、道のりと日数を計算した上で療養に努めた。しかし、既に彼が参内した頃には祝宴が行われていたため、曹丕は彼を咎めた。古の例を取って非難する曹丕に対し、郭淮はそれを逆手にとって弁明した。そのためかえって曹丕に気に入られ、仮の雍州刺史に任命され、5年後に正式な雍州刺史となった。何度も族らの反乱を鎮圧したため、降伏者がよく訪れてきたという。予め相手の親族関係などを調査してから面会したため、心を掴んだ。

228年蜀漢軍が祁山に侵攻すると、郭淮は緊急事態を察知して上邽に馳せ還った(「姜維伝が引く『魏略』」)。諸葛亮は街亭に馬謖を派遣し、列柳に高翔を駐屯させたが、張郃が馬謖を、郭淮が高翔を攻め、これを破った(街亭の戦い)。更に隴西郡の羌族の名家を枹罕で破り、建威将軍に任命された。

229年、蜀の陳式武都陰平を攻撃してきた。迎撃に出たが、諸葛亮自ら建威に出陣してきたため敗れ、両郡を奪われた(「諸葛亮伝」)。

230年、蜀の魏延が羌中に侵攻してきた。費耀と迎撃に出たが陽谿で敗れた(「魏延伝」)。

231年、諸葛亮が鹵城に攻めてきた。曹真に代わって指揮官となった司馬懿の下、戴陵や費耀とともに上邽で諸葛亮を迎撃したが敗れた(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。この時、兵糧不足に苦しめられたが、羌族を手懐け兵糧を提供させた。揚武将軍に任命された。

234年、斜谷に攻めてきた諸葛亮は蘭坑で屯田を始めた。長安方面への攻撃計画を見破り、迎撃して防衛に貢献した。次に諸葛亮が西方に軍を進めると、陽遂が攻撃されると予想し、再びこれを防いだ。

238年、蜀の廖化が守善羌侯の宕蕈を攻撃したため、王贇・游奕に廖化を挟撃させた。郭淮の上奏を受けた曹叡(明帝)は「軍隊の配置は分離を避けるもの」として急ぎ詔勅を下したが、それが届く前に王贇・游奕は廖化に敗れた(「明帝紀」)。

240年、蜀の姜維が隴西に侵攻してきたが、これを防いだ。羌族の迷当を攻撃し、さらに族3000余部を降参させ関中に強制移住させた。その功績で左将軍に昇進した。涼州の休屠胡である梁元碧が雍州に帰順したので、郭淮は安定郡高平に移住させることを要請し、彼らのために西州都尉の職を設置するよう取り計らった。後に前将軍へ転任となったが、州の宰領は元通り執り行なった。

244年曹爽が蜀征伐の軍を起こすと、郭淮も夏侯玄の下で先鋒として従軍したが、形勢不利を覚った郭淮はいち早く味方の軍を脱出させたため、大敗させずに済んだ(興勢の役)。帰還後、仮節された。

247年から248年、姜維と廖化は蛾遮塞治無戴といった羌族と手を結び魏に侵攻した。諸将が郭淮の、軍を分けて廖化を攻めるべきという判断に反対したが、郭淮はそれらの反対を退け廖化を攻撃し、また夏侯覇を姜維に当たらせた。結果、郭淮の読み通り姜維は廖化を救援し、そのまま敗走した。都郷侯に昇進した。

249年、夏侯玄に代わって征西将軍・都督雍涼州諸軍事となり、対蜀軍戦線の総司令官にまで昇りつめた。このため、以前より不仲だった夏侯覇は不安を覚え、蜀に亡命したという(「諸夏侯曹伝」が引く『魏略』)。陳泰と協力し、蜀の句安らを降参させた。

250年には、長年の功績を賞され、車騎将軍・儀同三司に昇進し、引き続き都督雍涼諸軍事を兼務した。陽曲侯に封じられ、領邑は2780戸となった。その内の300戸が分割され、一子が亭侯に採り立てられた。

251年王淩が皇帝廃立を目論んでいたことで司馬懿に討伐され、自害に追い込まれた(王淩の乱)。郭淮の妻が王淩の妹であったため、妻は罪人として中央に赴くよう要請されてしまった。郭淮の配下や周辺の部族長が、挙って郭淮の下へ押し寄せ助命を嘆願したが、郭淮は聞き入れなかった。妻が雍州を離れることになった際、子供たちが額から血を流すほどに叩頭して請願したため、郭淮はそれを見過ごすに忍びず、妻を取り返した。また、この件を司馬懿に言上し「子供らは母親を哀んでおり、もし母親を失えば彼らも自害するでしょう。そして子供らが亡くなれば、私もまたいないことになります。故に妻を取り返してしまいました。これが法上許されないのであれば、私も然るべき罪に服す所存でございます」と述べた。司馬懿はその言を受け、彼らの罪を不問とした(『世語』)。

255年死去。大将軍を追贈され、貞侯された。子が跡を継いだ。郭淮の一族は、代にはそれぞれ高官に昇ったという。

小説『三国志演義』では、自分で射た矢を姜維に射返され落命している。