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「ノート:エーリンナ」の版間の差分

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(この質問自体、[[Wikipedia:記事の所有権]]からしてナンセンスな質問なのですが、編集合戦になったら嫌なので一応確認させてください。)<br>
(この質問自体、[[Wikipedia:記事の所有権]]からしてナンセンスな質問なのですが、編集合戦になったら嫌なので一応確認させてください。)<br>
また、Stella marisさんにおかれましては、以下の情報も参考材料としてご査収ください。当該の漫画の作者の方は、リュラの再現奏者としても著名な方で、2017年の[[日本西洋古典学会]]などにも登壇しています[https://clsoc.jp/meetings/past.html][http://clsoc.sblo.jp/article/174259599.html]。その際に、漫画の作者であることも明言されています[https://www.facebook.com/asahiculture.shinjuku/posts/1715192271871992/]。つまり要するに、当該の漫画は、西洋古典学の専門家の方々も認知している著名な漫画ということです。ですので、記事内のコメントで心配されているような宣伝目的の問題に関しては、問題ないと思います。--[[利用者:Vetalapancavimsatika|Vetalapancavimsatika]]([[利用者‐会話:Vetalapancavimsatika|会話]]) 2020年7月24日 (金) 19:03 (UTC)
また、Stella marisさんにおかれましては、以下の情報も参考材料としてご査収ください。当該の漫画の作者の方は、リュラの再現奏者としても著名な方で、2017年の[[日本西洋古典学会]]などにも登壇しています[https://clsoc.jp/meetings/past.html][http://clsoc.sblo.jp/article/174259599.html]。その際に、漫画の作者であることも明言されています[https://www.facebook.com/asahiculture.shinjuku/posts/1715192271871992/]。つまり要するに、当該の漫画は、西洋古典学の専門家の方々も認知している著名な漫画ということです。ですので、記事内のコメントで心配されているような宣伝目的の問題に関しては、問題ないと思います。--[[利用者:Vetalapancavimsatika|Vetalapancavimsatika]]([[利用者‐会話:Vetalapancavimsatika|会話]]) 2020年7月24日 (金) 19:03 (UTC)

:まず答えの前に、記事の私物化とか、何を言っているのかということになります。古代ギリシア文学について、知識を持ち、記事を精査して、どのように記事を発展させるのが良いか、相談できる人たち、つまりプロジェクトを立てるに必要な人がいるなら、プロジェクトを立てて、そこで様々に議論したり提案し合ったりして、方針を決めるのです。この場合、3,4人のプロジェクトで、記事あるいは記事群の発展についてプロジェクトを造って活動しているということで、記事の私物化などではない。ところが、現実に、そういう人員、人材がいないのが日本語版なのです。そのため、わたしが私物化しているかのように見えるだけです。ガイドラインは、英語版にあるガイドラインを日本語に翻訳して導入しているだけだと思いますが、英語版のガイドラインは英語版では、かなり有効に働くが、日本語版では有効に働かない。こういう現実があります。(何故、うまく働かないかというと、知識を持った編集者の層が、英語版ではかなり厚いが、日本語版では、薄いか、またはまったくないという現実があるのです)。
:そこで質問に対する答えですが、わたしは、はっきりと答えていますし、その理由も明確に述べています。答えは、もっと深い考察や、配慮が必要だと、そう述べた通りです。つまり、記事をどうするか、エーリンナの場合は、もっと寝かして日本語版で、なじませる必要がある。こういう過程で、どういう記事かということも、冷静に見ることができるようになる。つまり、何か編集を加えるにしても、急ぐことはない。むしろ、急ぐと、ネガティヴな結果になることが多いと思う。また、何故そんなに記事の新規編集をしたがるのか、理解できない。先にプロジェクトと述べましたが、これはプロジェクトの問題になっているのが本当の処である。つまり、数ヶ月、一年、二年というような時間スパンで考えることで、今日、明日、一週間以内とかに、どうこうする必要などどこにもない。この記事の場合は、慎重に対応する必要があるのは、これは本当に良質な記事で、実に見事にできています。下手に触ると、壊れてしまう。そして壊れると、日本語版では、元の水準に戻すのは難しい(どうして難しいのか理由があるのですが、これは考えてください)。この記事は、必要なことはすべて書かれており、記述のバランスも実に見事になっている。また簡潔明晰な表現になっていて、いささか簡潔すぎるのではないかとも思いますが、それは足りない簡潔さではなく、明晰さの簡潔さだと思います。わたしは、この記事に、別の画像を貼ってみたのですが、(プレビューで見て)、サイズとかキャプションとか色々と考えて試してみたが、英語版で、簡潔になっている理由が逆に分かったようにも思います。つまり、実際に貼ってみて、色々と吟味した結果、これは何もない方が、記事として完成していると思った。微妙な話なので、違う意見の人もいるかも知れないが、わたしの意見では、これは簡単にはさわれないということです。従って、記事は寝かして、この記事を編集しようと思う人がいたら、記事が何なのか、十分に理解できるまでなじんでいただくのが望ましい。すでに述べたように、何故編集を急ぐ必要があるのか分からないです。現在の記事でも、漫画でエーリンナを知った人が検索すると、記事がある。それを読むと、色々なことが分かる。当面は、それで十分ではないか。「注釈」で色々な背景説明をしているので、実は英語版よりも詳しい記事になっている。ただし、本文は英語版にほぼ忠実な形になっている。これだけ完全な記事だと、何を加えても余分なものにしか見えない。それが分かるには、記事になじまなければならない。いまの認識だと、何をしても記事は劣化する。「注釈」を増やすというのはあると思う。しかし、この記事は、非常にレヴェルが高い記事で、高校生が読んですぐ分かるようなものではない。大人でも分かりにくい。何度も読んでいると、分かってくるか、あるいは理解が進む。英語版の記事は、明らかに、西欧古典学の知識を持った人を読者として考えている。また、それぐらいの高いレベルでないと記事が成立しない。

:英語版ではガイドラインがある程度うまく働くという理由を少し述べます。英語版で、幾つかの関心のある秀逸な記事をウォッチに入れていると、その編集状態が分かる。秀逸な記事でも編集する人はいるのです。ところで、誰かが編集すると、すぐにか、一日以内程度には、もし削除が行われる場合は、それが起こる。他方、削除されないで維持される編集もある。この削除される編集と、維持される編集で、どういう違いがあるのか差分で調べると、削除されない編集は、記事にとって有益な加筆か、記事のバランスを乱さないものである。他方、削除されるのは、荒らしか、または確かにそんな加筆は不要だとか、その削除は行ってはならないと、納得の行くものになっている。ここから考えると、英語版の秀逸な記事には、20人ぐらい、常時監視しているというか、編集をチェックしている人たちがいると考えざるを得ない。つまり「どしどし編集してください」とかガイドラインにあっても、有効な、あるいは有益な編集は残るが、そうでないものは、どしどし削除される。つまり、10人か20人かそれ以上か、かなりに高度な知識を持つ人たちが、こういう風に監視・チェックしているので、記事の劣化は起こらない。また大きな規模の編集は、それなりに認められた人、あるいは多くの人が納得の行くような編集でないと、受け入れられない。つまり、「大胆に編集」しても記事は劣化しない。「知識のない人」が編集しても、それが受け入れられものなら残るし、受け入れられなければ削除される。英語版に常駐していた頃があり、半年か八ヶ月か、こういう風にウォッチしていて、つくづく感じたのは、英語版は優れた人材が大勢いるという実感です。層が非常に厚い。また、良質な記事の場合、人数は少ないが、やはり、こういう風に記事をウォッチしていて劣化を防ぐグループがいる。
:英語版では、多数のポータルがあり、すべてではないが、ほとんどの記事が、重要度評価や品質評価を受けている。日本語版では、これはできない。「プロジェクト:スポーツ」で、重要度と評価のシステムを持っていたが、機能しないので廃止となった。関連カテゴリすべてが、いま削除依頼に出されているか、削除されたかも知れない。「良質な記事」カテゴリやテンプレートがあるプロジェクトは、日本語版では、五つぐらいのプロジェクトしかない。そのなかの一つは、最近、わたしが発足させた、「良質な記事クラスのギリシア神話記事」です。プロジェクトが低迷しているので、わたしがいるあいだに造っておこうと思って造った。ギリシア神話関係の全記事への品質評価など、まず無理でしょうし、評価した後、メンテナンスができない。
:というように書きましたが、英語版ではうまく行くことが、日本語版ではうまく行かない。評価システムは、フランス語版ではそれなりに機能していたと思う。民族の気質や性格の問題かも知れない。フランス語版も英語版も、新規記事は、必ずどれかのポータルの管轄のもとにおかれる(新規記事が作成されると、ポータルが貼られていない記事は誰かが貼りにやってくる)。ドイツ語版はどううなっていたのかはよく知らない。フランス語版は、そんなにユーザーがいないと思うが、コミュニティは機能している。日本語版は、コミュニティなど機能していない。これぐらいにしておきます(non revoir, farewell)。--[[利用者:Stella maris|Stella maris]]([[利用者‐会話:Stella maris|会話]]) 2020年7月24日 (金) 23:02 (UTC)

2020年7月24日 (金) 23:02時点における版

受容セクションについて

この編集利用者:Stella marisさんが日本語の漫画についての記述を削除されたのですが、受容セクションを作って以下の内容を記載することを提案します。既にノート:中島敦#ウィキペディアブンガク_中島敦などで議論になっていることですが、歴史上の文人がその後にどういう作品に登場しているかということは受容を知る上で重要な情報であり、きちんとした出典があれば書いてよいはずです。以下の内容を付加することを提案します。

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Reply
ご提案、有り難うございます。しかし、別の方がどこかで述べられていましたが、似たようなことを感じます。それは、どの記事でもそうですが、記事を執筆する人、編集する人は、基本的な知識や教養が必要になるということです。出典と言っても、それがどの程度信頼できるのか、また資料としてどう扱えばよいのか、こういう作業のためにも、基本的な教養は必須で、出典さえあれば何を書いてもよいということではないのです。どうもあなたは分かっておられないようです。失礼な言い方かも知れませんが、わたしの主観的に感じます処では、どうもあなたは古代ギリシアや西欧古典学などの分野では、基本的な教養がないように思えます。つまり、何かお話ししても無意味なように思えます。
前回のアニュテーのときのやりとりがすでにありますので、尚更に感じます。あそこでは、あなたは完全に間違った翻訳をされたので、わたしは取り消したのですが、何が間違いなのかは述べませんでした。これは、記事編集が何か分かっていないか、または専門分野、古代ギリシア文学での知識の欠落を意味するのだと思いました。今回、その両方であると感じました。それ故、ご自分がよく知らない分野には今後関与しないで頂きたく伏してお願い致します。--Stella maris会話2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)[返信]
付記しますと、この記事の元記事は、英語版の「良質な記事」で、どういう意味で良質な記事なのか、わたしは実に納得が行くのです(審議過程があります)。エーリンナの記事は元々書ける内容が限られているのです(フランス語版、ドイツ語版等を参照)。つまり、この記事は、英語版の実質「秀逸な記事」に該当するのです。良質な記事、秀逸な記事の改善、質の向上というのは、実に難しいです。知識と力量が必要になります。わたし自身、本文にはほとんど手を触れていません。「注釈」として追加説明を入れたのみです。それは、記事が非常に高度に完成しているからで、このような記事に簡単に手を出すことはできない。また何かを付け加えるにしても、よほどに深く考えて判断しなければならない。と言うことで、はっきり言います。あなたがどうこうできる記事ではありません。従って、再度述べますが、関与しないで頂きたくお願いします。--Stella maris会話2020年7月24日 (金) 09:56 (UTC)[返信]
こんにちは、さえぼーさん。まず、決めつけるような言い方をしたことをお詫び致します。
完全な誤訳というのは、言葉が過ぎたと思いますが、これは、female Homer のことなどではありません。それは先のアニュテーのノートで言及していますので、違います。述べていない誤訳とは何か、というのは、これはいささか込み入った話なので、あえて述べていないのですが、こういうことが起こるとはわたしはまったく思っていなかった。
わたしの翻訳が下手だとしても、明らかに知識がないと分かる人から、見当違いの添削など受けたことはまず記憶にありません。わたしの訳文や、文章はあるいは読みにくいかも知れませんが、それはわたしの文体というべきものです。何より、詩の翻訳をしていると思いますが、それを見れば、添削などする相手ではないと分かるように思うのですが。わたしは、何十年も翻訳を行っており、翻訳の初心者などではありません。
それぞれの翻訳において、文体に特異性があるかも知れないが、それなりに完成した訳文を仕上げているつもりです。あなたから生徒や子供相手のような扱いを受けるいわれはない。他のウィキペディアンに対する「敬意」というものが、ここではガイドラインになっていますが、あなたのやりようからは、人を見下す傲慢な態度と不快感しか感じません。
(他の人の訳文を、改善のため手を入れるのと、添削するというのは根本的に違うのです。この違いは微妙ですが、おそらく「敬意」が感じられるかどうかにあると思います)。
なお、「関与しないでほしい」というのは明確な条件がついており、例えば、古代ギリシア文学について基本的な知識をお持ちでないなら、ということです。そうして、あなたはそういう基本知識を持っているようには見えないのです。(わたしは古代ギリシアの詩人の記事を、この一ヶ月で五件ほど翻訳で作成しましたが、基本的な知識というのは、こういう作業ができるかということです。これらの記事は、誰からも、意味不明とか、翻訳になっていないと言うような指摘は受けていません。あなた以外の人からは)。
わたしは、翻訳で記事を作成して感謝されたことはあるが、こんなひどい侮辱を受けたことはありません。あなたの態度は、思い上がりで他人を見下しているとしか思えない。--Stella maris会話2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)[返信]
Wikipedia is neither a room for translation seminar nor a place for pragmatic English-Japanese translation lessons, and I am not a student whom receives the guidance and instructions from you.
You just seem to be a non-purpose user.--Stella maris会話2020年7月24日 (金) 16:21 (UTC)[返信]
  • Stella marisさんはウィキペディアの記事の翻訳ということについて完全に勘違いをしておられるのではないかと思います。Wikipedia:記事の所有権にあるように、「何人も――どんなに熟練していて、コミュニティ内でどんなに高い地位にあろうと――ある記事を所有しているかのように振る舞う権利はありません」。専門家や初稿執筆者であっても記事を所有することはできませんし、他の人が改善のために加筆をしているのであれば許容しなければならない場合のほうが多いはずです。このガイドラインでは、「あなたには、この記事を編集するにふさわしい資質があるといえるのでしょうか?」とか「あなたは明らかに、このテーマについての実務経験が不足している」とか「この記事を見た限り、問題はまったくないと思います、この記事を変更する必要は全くありません」といった発言が記事の私物化の例としてあげられていますが、Stella marisさんはこの3つに該当する発言をこのノートでしておられます。Wikipedia:記事の所有権を再度、一読することをおすすめします。
なお、私はStella marisさんが書いた文章が「意味不明とか、翻訳になっていない」などということは一切言っておりませんし、また思ってもおりません。アニュテーではごくわずかな編集しかしておらず、いずれもノート:アニュテーで説明したように、いきなり半角数字が出てくると読みづらいとか、多少読みやすくなるだろうと考えてやっただけのものです。私は新着記事に推薦されているような記事については多くのものについてこういうことをしております。ウィキペディアはみんなで記事を良くしていくプロジェクトなので、自分が書いた文章が人に読まれて直されるというのは全く当たり前のことでしょう。私は自分が翻訳した記事について他の方が冷静な目でチェックや修正をして下さるのは大変ありがたいことだと思っていますし(自分だけで文章を書いているとよくわからなくなることもありますので)、明らかな誤訳になるとかならともかく、そうでなければ感謝をしています。また、エーリンナではそもそもStella marisさんが書いた文章には一切手を付けておりません。書き足しただけです。
また正直、翻訳や文章の表記をいじることと「古代ギリシア文学について基本的な知識」の関連がわかりかねます。そもそも数字の表記とか読みやすさのために文を数語程度変えたり、エーリンナに新しいセクションを作って後世の受容がわかる作品を3つくらい書き加えようという提案に「古代ギリシア文学について基本的な知識」はほぼ関係ありませんので、おっしゃることには筋が通っていないと思います。--さえぼー会話2020年7月24日 (金) 16:58 (UTC)[返信]

コメント お二方ともこんにちは。議論に水を差す形で恐縮ですが、一点だけ、Stella marisさんに 質問させてください。結局のところ、Stella marisさんは、受容セクションの設置について許可なのでしょうか、それとも不許可なのでしょうか。お答えいただければ幸いです。許可していただけた場合、私のほうで本ノート冒頭のさえぼーさんの提案内容を加筆しておきます。
(この質問自体、Wikipedia:記事の所有権からしてナンセンスな質問なのですが、編集合戦になったら嫌なので一応確認させてください。)
また、Stella marisさんにおかれましては、以下の情報も参考材料としてご査収ください。当該の漫画の作者の方は、リュラの再現奏者としても著名な方で、2017年の日本西洋古典学会などにも登壇しています[1][2]。その際に、漫画の作者であることも明言されています[3]。つまり要するに、当該の漫画は、西洋古典学の専門家の方々も認知している著名な漫画ということです。ですので、記事内のコメントで心配されているような宣伝目的の問題に関しては、問題ないと思います。--Vetalapancavimsatika会話2020年7月24日 (金) 19:03 (UTC)[返信]

まず答えの前に、記事の私物化とか、何を言っているのかということになります。古代ギリシア文学について、知識を持ち、記事を精査して、どのように記事を発展させるのが良いか、相談できる人たち、つまりプロジェクトを立てるに必要な人がいるなら、プロジェクトを立てて、そこで様々に議論したり提案し合ったりして、方針を決めるのです。この場合、3,4人のプロジェクトで、記事あるいは記事群の発展についてプロジェクトを造って活動しているということで、記事の私物化などではない。ところが、現実に、そういう人員、人材がいないのが日本語版なのです。そのため、わたしが私物化しているかのように見えるだけです。ガイドラインは、英語版にあるガイドラインを日本語に翻訳して導入しているだけだと思いますが、英語版のガイドラインは英語版では、かなり有効に働くが、日本語版では有効に働かない。こういう現実があります。(何故、うまく働かないかというと、知識を持った編集者の層が、英語版ではかなり厚いが、日本語版では、薄いか、またはまったくないという現実があるのです)。
そこで質問に対する答えですが、わたしは、はっきりと答えていますし、その理由も明確に述べています。答えは、もっと深い考察や、配慮が必要だと、そう述べた通りです。つまり、記事をどうするか、エーリンナの場合は、もっと寝かして日本語版で、なじませる必要がある。こういう過程で、どういう記事かということも、冷静に見ることができるようになる。つまり、何か編集を加えるにしても、急ぐことはない。むしろ、急ぐと、ネガティヴな結果になることが多いと思う。また、何故そんなに記事の新規編集をしたがるのか、理解できない。先にプロジェクトと述べましたが、これはプロジェクトの問題になっているのが本当の処である。つまり、数ヶ月、一年、二年というような時間スパンで考えることで、今日、明日、一週間以内とかに、どうこうする必要などどこにもない。この記事の場合は、慎重に対応する必要があるのは、これは本当に良質な記事で、実に見事にできています。下手に触ると、壊れてしまう。そして壊れると、日本語版では、元の水準に戻すのは難しい(どうして難しいのか理由があるのですが、これは考えてください)。この記事は、必要なことはすべて書かれており、記述のバランスも実に見事になっている。また簡潔明晰な表現になっていて、いささか簡潔すぎるのではないかとも思いますが、それは足りない簡潔さではなく、明晰さの簡潔さだと思います。わたしは、この記事に、別の画像を貼ってみたのですが、(プレビューで見て)、サイズとかキャプションとか色々と考えて試してみたが、英語版で、簡潔になっている理由が逆に分かったようにも思います。つまり、実際に貼ってみて、色々と吟味した結果、これは何もない方が、記事として完成していると思った。微妙な話なので、違う意見の人もいるかも知れないが、わたしの意見では、これは簡単にはさわれないということです。従って、記事は寝かして、この記事を編集しようと思う人がいたら、記事が何なのか、十分に理解できるまでなじんでいただくのが望ましい。すでに述べたように、何故編集を急ぐ必要があるのか分からないです。現在の記事でも、漫画でエーリンナを知った人が検索すると、記事がある。それを読むと、色々なことが分かる。当面は、それで十分ではないか。「注釈」で色々な背景説明をしているので、実は英語版よりも詳しい記事になっている。ただし、本文は英語版にほぼ忠実な形になっている。これだけ完全な記事だと、何を加えても余分なものにしか見えない。それが分かるには、記事になじまなければならない。いまの認識だと、何をしても記事は劣化する。「注釈」を増やすというのはあると思う。しかし、この記事は、非常にレヴェルが高い記事で、高校生が読んですぐ分かるようなものではない。大人でも分かりにくい。何度も読んでいると、分かってくるか、あるいは理解が進む。英語版の記事は、明らかに、西欧古典学の知識を持った人を読者として考えている。また、それぐらいの高いレベルでないと記事が成立しない。
英語版ではガイドラインがある程度うまく働くという理由を少し述べます。英語版で、幾つかの関心のある秀逸な記事をウォッチに入れていると、その編集状態が分かる。秀逸な記事でも編集する人はいるのです。ところで、誰かが編集すると、すぐにか、一日以内程度には、もし削除が行われる場合は、それが起こる。他方、削除されないで維持される編集もある。この削除される編集と、維持される編集で、どういう違いがあるのか差分で調べると、削除されない編集は、記事にとって有益な加筆か、記事のバランスを乱さないものである。他方、削除されるのは、荒らしか、または確かにそんな加筆は不要だとか、その削除は行ってはならないと、納得の行くものになっている。ここから考えると、英語版の秀逸な記事には、20人ぐらい、常時監視しているというか、編集をチェックしている人たちがいると考えざるを得ない。つまり「どしどし編集してください」とかガイドラインにあっても、有効な、あるいは有益な編集は残るが、そうでないものは、どしどし削除される。つまり、10人か20人かそれ以上か、かなりに高度な知識を持つ人たちが、こういう風に監視・チェックしているので、記事の劣化は起こらない。また大きな規模の編集は、それなりに認められた人、あるいは多くの人が納得の行くような編集でないと、受け入れられない。つまり、「大胆に編集」しても記事は劣化しない。「知識のない人」が編集しても、それが受け入れられものなら残るし、受け入れられなければ削除される。英語版に常駐していた頃があり、半年か八ヶ月か、こういう風にウォッチしていて、つくづく感じたのは、英語版は優れた人材が大勢いるという実感です。層が非常に厚い。また、良質な記事の場合、人数は少ないが、やはり、こういう風に記事をウォッチしていて劣化を防ぐグループがいる。
英語版では、多数のポータルがあり、すべてではないが、ほとんどの記事が、重要度評価や品質評価を受けている。日本語版では、これはできない。「プロジェクト:スポーツ」で、重要度と評価のシステムを持っていたが、機能しないので廃止となった。関連カテゴリすべてが、いま削除依頼に出されているか、削除されたかも知れない。「良質な記事」カテゴリやテンプレートがあるプロジェクトは、日本語版では、五つぐらいのプロジェクトしかない。そのなかの一つは、最近、わたしが発足させた、「良質な記事クラスのギリシア神話記事」です。プロジェクトが低迷しているので、わたしがいるあいだに造っておこうと思って造った。ギリシア神話関係の全記事への品質評価など、まず無理でしょうし、評価した後、メンテナンスができない。
というように書きましたが、英語版ではうまく行くことが、日本語版ではうまく行かない。評価システムは、フランス語版ではそれなりに機能していたと思う。民族の気質や性格の問題かも知れない。フランス語版も英語版も、新規記事は、必ずどれかのポータルの管轄のもとにおかれる(新規記事が作成されると、ポータルが貼られていない記事は誰かが貼りにやってくる)。ドイツ語版はどううなっていたのかはよく知らない。フランス語版は、そんなにユーザーがいないと思うが、コミュニティは機能している。日本語版は、コミュニティなど機能していない。これぐらいにしておきます(non revoir, farewell)。--Stella maris会話2020年7月24日 (金) 23:02 (UTC)[返信]