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'''清水 径子'''(しみず けいこ、[[1911年]][[2月11日]] - [[2005年]][[10月18日]])は、[[東京都]]出身の俳人。本名経子(つねこ)。[[東京市]][[下谷区]]車坂(現[[台東区]][[上野]])生まれ。幼いときに両親と死別し、以後祖母のもとで姉弟と暮らす。東京府立第一女子高等学校(現[[東京都立白高等学校・附属中学校|都立白高等学校]])卒。1932年に結婚するが離婚。速記学校に通ったのち速記で生計を立てる。1937年、弟が死去。死の思いに傾斜し哲学書などを耽読。
'''清水 径子'''(しみず けいこ、[[1911年]][[2月11日]] - [[2005年]][[10月18日]])は、[[東京都]]出身の俳人。本名経子(つねこ)。[[東京市]][[下谷区]]車坂(現[[台東区]][[上野]])生まれ。幼いときに両親と死別し、以後祖母のもとで姉弟と暮らす。東京府立第一女子高等学校(現[[東京都立白高等学校・附属中学校|都立白高等学校]])卒。1932年に結婚するが離婚。速記学校に通ったのち速記で生計を立てる。1937年、弟が死去。死の思いに傾斜し哲学書などを耽読。


他方、義兄にあたる[[秋元不死男]]の勧めで俳句に傾倒。1949年、不死男の「氷海」の創刊に参加。翌年、同誌同人。1971年より同誌の「新葉集」の選者を務める。この頃、中尾寿美子、高木智恵子らと「虹の会」を結成し、有季定型を探究する。1977年、不死男が死去し「氷海」が終刊。その間、1964年に[[俳人協会]]事務局に奉職。
他方、義兄にあたる[[秋元不死男]]の勧めで俳句に傾倒。1949年、不死男の「氷海」の創刊に参加。翌年、同誌同人。1971年より同誌の「新葉集」の選者を務める。この頃、中尾寿美子、高木智恵子らと「虹の会」を結成し、有季定型を探究する。1977年、不死男が死去し「氷海」が終刊。その間、1964年に[[俳人協会]]事務局に奉職。

2020年7月24日 (金) 06:49時点における版

清水 径子(しみず けいこ、1911年2月11日 - 2005年10月18日)は、東京都出身の俳人。本名経子(つねこ)。東京市下谷区車坂(現台東区上野)生まれ。幼いときに両親と死別し、以後祖母のもとで姉弟と暮らす。東京府立第一女子高等学校(現都立白鷗高等学校)卒。1932年に結婚するが離婚。速記学校に通ったのち速記で生計を立てる。1937年、弟が死去。死の思いに傾斜し哲学書などを耽読。

他方、義兄にあたる秋元不死男の勧めで俳句に傾倒。1949年、不死男の「氷海」の創刊に参加。翌年、同誌同人。1971年より同誌の「新葉集」の選者を務める。この頃、中尾寿美子、高木智恵子らと「虹の会」を結成し、有季定型を探究する。1977年、不死男が死去し「氷海」が終刊。その間、1964年に俳人協会事務局に奉職。

1979年、かねてより私淑していた永田耕衣の「琴座」(りらざ)に入会、同人。1997年、耕衣が死去し「琴座」終刊。1998年、鳴戸奈菜ら「琴座」元同人たちと「らん」を創刊、同人。2002年、『雨の樹』で第17回詩歌文学館賞を受賞。早くして肉親と死別したことによる寂しみが作句の原点となった。代表句「慟哭のすべてを螢草といふ」。2005年10月18日心不全により死去。94歳。

句集

  • 鶸(1973年、牧羊社)
  • 哀湖(1981年、俳句研究社)
  • 夢殻(1994年、創文社)
  • 雨の樹(2001年、角川書店)
  • 清水径子全句集(2005年、らんの会)

参考文献

  • 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年

外部リンク