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[[322年]]、東晋に反乱を起こし武昌で挙兵する。大義名分は東晋の[[皇帝]]となった元帝の側近であった[[劉隗]]と[[刁協]]らの誅殺であったが、王導が彼らを重用した元帝に遠ざけられたためでもあった。王敦は石頭を守備していた元帝配下の{{仮リンク|周札|zh|周札}}を自軍に引き入れることに成功し、官軍に対し大勝利を収める。従甥の[[王允之]]は王敦らの反乱の話をたまたま訊いていたため、口封じで殺されるのを恐れ口に指を入れて、わざと嘔吐して病人を装って難を逃れたという。事態を重く見た元帝は、王敦に対し共に天下を治めていくことを誓約し、王敦もこれに応じて[[丞相]]になり、刁協、[[戴淵]]、[[周顗]]、[[甘卓]]ら敵対した者たちを殺害した。同年の内に元帝が崩御し、太子が[[明帝 (東晋)|明帝]]として即位した。 |
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2020年7月23日 (木) 03:47時点における版
王 敦(おう とん、266年 - 324年)は、中国の五胡十六国時代の軍人。字は処仲。本貫は琅邪郡臨沂県。琅邪王司馬睿(後の元帝)を擁立し、従弟の王導と共に東晋を建国した。武力に優れ、人望があり、機略に富んでいたとされる。また、書家の王羲之は従甥にあたる。父は王基、兄は王含、甥は王瑜[1]と後に養子になる王應ら。
生涯
実力者となる
八王の乱を逃れた司馬睿が王導の献策により建業に移った時、王敦も共に江東の地に入る。315年には都督、江州・揚州・荊州・湘州・交州・広州六州の諸軍事・江州刺史及び漢安侯となる。やがて西晋の愍帝が劉曜に捕らえられると、晋王となった司馬睿により大将軍の位を授けられ、軍事の全権を掌握した。
反乱
322年、東晋に反乱を起こし武昌で挙兵する。大義名分は東晋の皇帝となった元帝の側近であった劉隗と刁協らの誅殺であったが、王導が彼らを重用した元帝に遠ざけられたためでもあった。王敦は石頭を守備していた元帝配下の周札を自軍に引き入れることに成功し、官軍に対し大勝利を収める。従甥の王允之は王敦らの反乱の話をたまたま訊いていたため、口封じで殺されるのを恐れ口に指を入れて、わざと嘔吐して病人を装って難を逃れたという。事態を重く見た元帝は、王敦に対し共に天下を治めていくことを誓約し、王敦もこれに応じて丞相になり、刁協、戴淵、周顗、甘卓ら敵対した者たちを殺害した。同年の内に元帝が崩御し、太子が明帝として即位した。
最期
323年、明帝から専横を極めていたと弾劾され、王敦を征伐するための詔勅を下された。これに対して王敦は帝位簒奪を企てて再び東晋に対して反乱を起こそうとしたが、挙兵直前になって重病に倒れた[2]。このため、記室(書記)が占いに長じていたので早速吉凶を占わせた[2]。記室は「此度は成功いたしません」と答え、続いて王敦が自らの寿命を尋ねると「事を起こされたら、間もなく禍に遭われますが動かずにいれば、長命が保てます」と答えた[2]。王敦は激怒して「お前の寿命はどうだ?」と質問して「本日で尽きます」と答えたので[2]、斬り殺した[3][注釈 1]。そして重病の王敦に代わり、兄の王含が軍の元帥として出陣し、324年7月に建康に迫ったが[3]、越城において敗れた。
王敦は敗報を聞くと「兄は老いぼれ下女のように役立たずだ」と述べて自ら陣頭に立とうとしたが、間もなく力尽きて倒れ、59歳で死去した[3]。王敦の死後、王含ら残党も全て平定され[3]、王敦の遺体には明帝の命令で罰が下された。王敦には子がなく兄・王含の子である王應を、武衛将軍にして自分の補佐にし、その後継者となった。
一族の王導は政治の舞台に戻り、陶侃・庾亮・郗鑒も実力者として台頭していった(王敦の乱)。