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== 経歴 ==
== 経歴 ==
琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]](のちの元帝)と王才人のあいだの子として生まれた。武陵王司馬喆の後を嗣ぎ、[[318年]]([[大興 (東晋)|大興]]元年)に武陵王に封じられた。[[咸和 (東晋)|咸和]]初年に[[散騎常侍]]に任じられた。後に[[湘東郡]]を武陵国に加増され、[[左将軍]]に任じられた。鎮軍将軍に転じ、散騎常侍の任を加えられた。[[342年]]([[咸康 (東晋)|咸康]]8年)、[[成帝 (東晋)|成帝]]の死去にあたって、会稽王[[簡文帝 (東晋)|司馬昱]]や中書監の[[ユ冰|庾冰]]、[[中書令]]の[[何充]]、[[尚書令]]の[[諸葛恢]]らとともに顧命を受けた。[[康帝 (東晋)|康帝]]が即位すると、[[侍中]]・特進を加えられた。[[343年]]([[建元 (東晋)|建元]]元年)、秘書監を兼ねた。[[345年]]([[永和 (東晋)|永和]]元年)1月、鎮軍大将軍・[[開府儀同三司]]となった。[[352年]](永和8年)7月、[[太宰]]に転じた。[[太和 (東晋)|太和]]初年、羽葆鼓吹・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えられたが、固辞した。
琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]](のちの元帝)と王才人のあいだの子として生まれた。武陵王司馬喆の後を嗣ぎ、[[318年]]([[大興 (東晋)|大興]]元年)に武陵王に封じられた。[[咸和 (東晋)|咸和]]初年に[[散騎常侍]]に任じられた。後に[[湘東郡]]を武陵国に加増され、[[左将軍]]に任じられた。鎮軍将軍に転じ、散騎常侍の任を加えられた。[[342年]]([[咸康 (東晋)|咸康]]8年)、[[成帝 (東晋)|成帝]]の死去にあたって、会稽王[[簡文帝 (東晋)|司馬昱]]や中書監の[[庾冰]]、[[中書令]]の[[何充]]、[[尚書令]]の[[諸葛恢]]らとともに顧命を受けた。[[康帝 (東晋)|康帝]]が即位すると、[[侍中]]・特進を加えられた。[[343年]]([[建元 (東晋)|建元]]元年)、秘書監を兼ねた。[[345年]]([[永和 (東晋)|永和]]元年)1月、鎮軍大将軍・[[開府儀同三司]]となった。[[352年]](永和8年)7月、[[太宰]]に転じた。[[太和 (東晋)|太和]]初年、羽葆鼓吹・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えられたが、固辞した。


司馬晞は学問はなかったが武才があり、[[桓温]]に忌避されるようになった。[[371年]]([[咸安 (東晋)|咸安]]元年)11月、[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]]が即位すると、桓温は司馬晞とその子の司馬綜を免官するよう上表した。さらに桓温は新蔡王司馬晃を使嗾して、司馬晞と司馬綜が著作郎の殷涓や太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舎人の劉彊らと反乱を計画したと誣告させた。司馬晞は収監されて、廷尉に送られた。司馬晞を処刑するよう上奏されたが、簡文帝は許さなかった。桓温は司馬晞を[[新安郡 (中国)|新安郡]]に移すよう上奏し、司馬晞は家族とともに新安に移された。殷涓らは一族とともに処刑され、新蔡王司馬晃は廃位されて衡陽郡に移された。
司馬晞は学問はなかったが武才があり、[[桓温]]に忌避されるようになった。[[371年]]([[咸安 (東晋)|咸安]]元年)11月、[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]]が即位すると、桓温は司馬晞とその子の司馬綜を免官するよう上表した。さらに桓温は新蔡王司馬晃を使嗾して、司馬晞と司馬綜が著作郎の殷涓や太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舎人の劉彊らと反乱を計画したと誣告させた。司馬晞は収監されて、廷尉に送られた。司馬晞を処刑するよう上奏されたが、簡文帝は許さなかった。桓温は司馬晞を[[新安郡 (中国)|新安郡]]に移すよう上奏し、司馬晞は家族とともに新安に移された。殷涓らは一族とともに処刑され、新蔡王司馬晃は廃位されて衡陽郡に移された。

2020年7月23日 (木) 03:32時点における版

司馬 晞(しば き、316年 - 381年)は、中国東晋皇族。武陵威王。道叔

経歴

琅邪王司馬睿(のちの元帝)と王才人のあいだの子として生まれた。武陵王司馬喆の後を嗣ぎ、318年大興元年)に武陵王に封じられた。咸和初年に散騎常侍に任じられた。後に湘東郡を武陵国に加増され、左将軍に任じられた。鎮軍将軍に転じ、散騎常侍の任を加えられた。342年咸康8年)、成帝の死去にあたって、会稽王司馬昱や中書監の庾冰中書令何充尚書令諸葛恢らとともに顧命を受けた。康帝が即位すると、侍中・特進を加えられた。343年建元元年)、秘書監を兼ねた。345年永和元年)1月、鎮軍大将軍・開府儀同三司となった。352年(永和8年)7月、太宰に転じた。太和初年、羽葆鼓吹・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名の特権を与えられたが、固辞した。

司馬晞は学問はなかったが武才があり、桓温に忌避されるようになった。371年咸安元年)11月、簡文帝が即位すると、桓温は司馬晞とその子の司馬綜を免官するよう上表した。さらに桓温は新蔡王司馬晃を使嗾して、司馬晞と司馬綜が著作郎の殷涓や太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舎人の劉彊らと反乱を計画したと誣告させた。司馬晞は収監されて、廷尉に送られた。司馬晞を処刑するよう上奏されたが、簡文帝は許さなかった。桓温は司馬晞を新安郡に移すよう上奏し、司馬晞は家族とともに新安に移された。殷涓らは一族とともに処刑され、新蔡王司馬晃は廃位されて衡陽郡に移された。

381年太元6年)、新安で死去した。享年は66。孝武帝により新寧郡王に追封された。387年(太元12年)、追って武陵国の封を戻された。

子女

  • 司馬綜
  • 司馬㻱(字は賢明、梁王司馬翹の後を嗣いだ)
  • 司馬遵(後嗣)

伝記資料