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幼くして父を失い、学問を好んで詩才があった。南朝梁の邵陵王府記室参軍を初任とした。このころ東宮学士の[[庾信]]が邵陵王府に使者としてあらわれ、邵陵王[[蕭綸]]が顔晃に応対させると、庾信はその年少なのをあなどって、「この府には記室が何人いるのか」と訊ねた。そこで顔晃は「宮中の学士よりは少ないでしょう」と答えた。当時の人はこれを優れた応答だとみなした。 |
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2020年7月23日 (木) 03:29時点における版
顔晃(がん こう、510年 - 562年)は、南朝梁から陳にかけての文人。字は元明。本貫は琅邪郡臨沂県。
経歴
幼くして父を失い、学問を好んで詩才があった。南朝梁の邵陵王府記室参軍を初任とした。このころ東宮学士の庾信が邵陵王府に使者としてあらわれ、邵陵王蕭綸が顔晃に応対させると、庾信はその年少なのをあなどって、「この府には記室が何人いるのか」と訊ねた。そこで顔晃は「宮中の学士よりは少ないでしょう」と答えた。当時の人はこれを優れた応答だとみなした。
侯景の乱が起こると、江陵に避難した。552年(承聖元年)、中書侍郎に任じられた。ときに元帝は呉興郡太守の杜龕を掣肘するために、顔晃に書翰を委ねて使者として派遣し、顔晃を文学の士としてそばに置くよう杜龕に命じた。556年(紹泰2年)、杜龕が滅ぼされると、顔晃は陳蒨に帰順し、書記の任を委ねられた。宣毅府中録事に任じられ、記室参軍を兼ねた。
558年(永定2年)、陳の武帝陳霸先が大荘厳寺に幸し、その夜に甘露が降ったため、顔晃は「甘露頌」の詩を献上した。560年(天嘉元年)、員外散騎常侍となり、中書舎人を兼ねて、詔勅の起草をつかさどった。562年(天嘉3年)、死去した。享年は53。司農卿の位を追贈された。諡は貞子といった。『文集』20巻があった。