「徐陵」の版間の差分
m Bot作業依頼: 庾氏各記事の正式な用字への改名に伴うリンク修正依頼 (庾肩吾) - log |
m Bot作業依頼: 庾氏各記事の正式な用字への改名に伴うリンク修正依頼 (庾信) - log |
||
4行目: | 4行目: | ||
== 一代文宗 == |
== 一代文宗 == |
||
父の徐摛、[[庾肩吾]]・[[ |
父の徐摛、[[庾肩吾]]・[[庾信]]父子とともに、皇太子[[簡文帝 (南朝梁)|蕭綱]](後の簡文帝)配下の[[文人]]として活躍し、「[[宮体詩|徐庾体]]」という艶麗な詩風を確立した。[[侯景の乱]]の混乱により、一時期北朝の[[東魏]]・[[北斉]]に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『[[玉台新詠]]』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は[[六朝時代]]の[[駢文]]の傑作として名高い。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2020年7月23日 (木) 03:29時点における版
徐 陵(じょ りょう、507年 - 583年)は、中国南北朝時代、梁・陳の文学者、政治家。字は孝穆。本貫は東海郡郯県。徐摛の子で、徐徳言の祖父。
一代文宗
父の徐摛、庾肩吾・庾信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐庾体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。
生涯
幼少の頃から聡明で、8歳で文章を綴り、12歳で『荘子』『老子』に通暁し、長じてからは史書を博覧し、弁舌にも巧みであったという。
521年(普通2年)、父の徐摛が梁の武帝の三男、晋安王蕭綱の諮議参軍となると、徐陵も蕭綱の幕府に招かれ参寧蛮府軍事となる。531年(中大通3年)、蕭綱が皇太子に立てられると、庾信とともに東宮の抄選学士となり、宮体詩の作者として梁の宮廷で活躍した。その後、通直散騎侍郎や南平王蕭恪・湘東王蕭繹(後の元帝)の参軍を務めた。
548年(太清2年)、通直散騎常侍を兼任し、東魏への使者として首都の鄴に赴き、東魏の朝廷で大いに歓待された。だが同年に起きた侯景の乱によって梁が戦乱に見舞われると、徐陵は帰国することができなくなり、東魏とその禅譲を受けた北斉で、数年間軟禁状態に置かれることになった。
554年、江陵にいた梁の元帝が西魏によって殺され、傀儡政権の後梁が建てられると、翌555年、北斉はそれに対抗するために、梁の皇族である蕭淵明を自らの軍とともに梁の皇帝として、建康にいた王僧弁のもとに送り込み、徐陵もそれに随行した。蕭淵明を迎え入れた王僧弁は徐陵を厚遇し、尚書吏部郎に任じて詔勅の起草を担当させた。王僧弁が陳霸先によって殺されると、徐陵は王僧弁配下の将であった任約のもとに奔った。任約が敗北すると陳霸先に許され、貞威将軍・尚書左丞に任じられた。翌556年には再び北斉に使者として派遣された。
557年、陳が建国されると、もとの官位に散騎常侍を加えられた。文帝が即位すると、太府卿・散騎常侍・御史中丞・吏部尚書などを歴任し、宣帝の時代には、尚書左僕射となり、建昌県侯に封じられた。徐陵は老齢を理由に、しばしば宣帝に致仕を願い出たが、そのたびに慰留された。後主が即位すると、左光禄大夫・太子少傅に移った。583年(至徳元年)に死去。享年77、諡は章。
徐陵は文才に優れ、梁陳交替時の禅譲文や陳朝の重大な国家文書は、みな彼の手によって書かれた。度量が広く、「一代の文宗」と称えられるようになっても、人に驕ることなく、後進の文人たちに対しても丁寧に応対したという。
子女
- 徐倹
- 徐份
- 徐儀
- 徐僔
伝記資料
評伝
- 吉川忠夫「徐陵-南朝貴族の悲劇」
- 『侯景の乱始末記 南朝貴族社会の命運』第2章。新版・志学社選書、2019年