「国家再建最高会議」の版間の差分
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2020年7月18日 (土) 09:44時点における版
大韓民国国家再建最高会議 | ||||||
대한민국 국가재건최고회의 大韓民國 國家再建最高會議 | ||||||
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大韓民国の領土.
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首都 | ソウル | |||||
言語 | 韓国語 | |||||
政府 | 軍事政権 | |||||
大統領(形式上) 国家再建最高会議議長(事実上) |
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• | 1960-1962 | 尹潽善(大統領) | ||||
• | 1961 | 張都暎(国家再建最高会議議長) | ||||
• | 1961-1963 | 朴正煕(国家再建最高会議議長) | ||||
議会 | 国会 解散中 | |||||
歴史・時代 | 冷戦 | |||||
• | 5・16軍事クーデター | 1961年5月16日 | ||||
• | 朴正煕が大統領に就任、第三共和国が成立 | 1963年12月17日 | ||||
通貨 | ファン(1953年–1962年) ウォン | |||||
現在 | 韓国 |
国家再建最高会議 | |
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クーデターを起こした朴正煕少将(中央、サングラスをかけた人物) | |
各種表記 | |
ハングル: | 국가재건최고회의 |
漢字: | 國家再建最高會議 |
発音: | クッカチェゴンチェゴフェウィ |
英語: | Supreme Council for National Reconstruction |
国家再建最高会議(こっかさいけんさいこうかいぎ)、略称「最高会議」は、1961年の5・16軍事クーデターから1963年の第三共和国成立までの間、大韓民国に存在した軍事政権で、クーデター直後の5月19日に軍事革命委員会(以下「革命委員会」)が名称を改称したものである。クーデターを支持する韓国軍の陸軍士官学校8期生によって主要メンバーが構成され、朴正煕が実権を掌握していた。
概要
クーデター直後の5月19日、革命委員会は名称を国家再建最高会議(以下「最高会議」)に改称し、議長に張都暎中将、副議長に朴正煕少将が就任した。同時に14の分科委員会の委員長も選出した。
- 議長:張都暎(中将)…失脚し、1961年7月3日に反革命容疑で逮捕。
- 副議長:朴正煕(少将)…1961年7月2日に最高会議議長に就任。
- 行政:呉致成(大佐)
- 外務・国防:柳陽洙(少将)
- 法務:李錫済(中佐)
- 建設:金振暐(准将)
- 商工:柳原植(大佐)
- 交通:金潤根(准将)
- 広報:宋賛鍋(准将)
- 内務:朴圓彬(中佐)
- 財務:文在駿(大佐)
- 文教:孫昌奎(中佐)
- 逓信:玉昌鍋(中佐)
- 公安:韓雄震(准将)
- 出典:尹景哲『分断後の韓国政治』239頁
最高会議は61年6月6日に国家再建非常措置法(以下「非常措置法」)を制定公布した。同法第2条の規定で「軍事革命完遂後に施行されるべき総選挙によって政府が樹立されるまで、最高会議は大韓民国の最高統治機関としての地位を有する」として最高会議が韓国の唯一の最高統治機関であることを明確にした。また国会の権限についても最高会議がこれを行使することとなった。これによって最高会議は1963年12月17日の第6代国会召集によって民政が樹立されるまでの期間、韓国唯一の最高統治機関としての機能を果たすことになった。
経緯
朴正煕少将率いる韓国軍の一派は、1961年5月16日に軍を派遣してソウルを掌握し、第二共和国の幕を閉じた。朴は、軍の政治化を求める軍幹部一派の一員であり、第二共和国の腐敗や自由主義政策による社会運動の放任、第一共和国期の反民主的活動や不正活動に関わった公職関係者の追放措置に対して不満を抱いたことが、政権掌握の動きに至った理由とされている
早期に政府を民政に復帰させることを公約としており、1962年12月2日の国民投票で78%の賛成を受けたことを根拠に、大韓民国を再び大統領制による共和憲政体制へと戻すことを決定した。そして同年12月26日に、憲法改正を実施して大統領に権力を集中させる第三共和国憲法が制定された。当初、朴正煕ら軍幹部は次の選挙で公職を求めないと誓約していた。しかし、結果的には朴正煕が1963年10月の大統領選挙に辛勝で当選、11月の第6代総選挙を経て民政移譲への態勢を整えた後の1963年12月16日に最高会議は解散した。そして翌17日に国会召集と大統領就任宣誓式が行われ、第三共和国が発足した。
経済
最高会議は、大韓民国史上初めて経済開発計画を政策として実施した政府であり、第一次五ヵ年計画が1962年から実施された。これに先立ち、第二共和国も経済開発計画を策定していたが、それらの計画を実施することができずにいた。その為、革命委員会は第二共和国の計画をそのまま転用したとの見方もある。朴正煕国家再建最高会議議長はケネディ米国大統領に韓国軍のベトナム戦争参戦の承認を求めたが拒絶された[1]。しかし、ケネディ大統領が暗殺され、ジョンソン大統領になると韓国軍のベトナム参戦が承認され、アメリカから大規模な軍需物資の受注や兵士への給料が支払われることにより経済が潤い多くの財閥が誕生した[1]。朴正煕国家再建最高会議議長は訪日し、日韓基本条約の締結に向けて交渉を始め日本から大規模な経済援助を得る筋道を付けた。軍事政権による外貨獲得政策により、計画的な経済発展政策が可能となり第三共和国、第四共和国でも実施され、経済的に最貧国であった大韓民国に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展をもたらした。
脚注
- ^ a b “韓国 軍も企業もベトナム参戦”. 朝日新聞 (2008年1月28日). 2008年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年4月29日閲覧。