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上記の表の通り、皇族と[[満州人]]が重要閣僚ポストを独占しており、6人いる[[漢民族|漢人]]国務長官は徐世昌を除いて実権が無い名誉職であった。この組閣の失敗については、一般的に摂政王の[[愛新覚羅載灃|載灃]]の責任が大きいとされる。 |
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== 内閣属官 == |
== 内閣属官 == |
2020年7月18日 (土) 02:43時点における版
慶親王内閣 | |
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内閣総理大臣 | 初代 愛新覚羅奕劻(慶親王) |
成立年月日 | 1911年5月8日(宣統3年4月10日) |
終了年月日 | 同年11月1日(9月11日) |
与党等 | 皇族内閣 |
慶親王内閣(けいしんのうないかく)は清朝の宣統3年4月10日(1911年5月8日)に成立し、同年の9月11日 (11月1日)に解散した中国史上最初の内閣。内閣総理大臣慶親王奕劻が組閣したが、閣僚の多くが皇族で占められていたため「皇族内閣」と揶揄された。
概要
1911年5月8日、清政府は軍機処の撤廃と内閣制度の発足を宣言して内閣総理大臣と諸大臣を任命し、同日内閣官制と内閣弁事暫行章程(暫定版内閣執務規定)を公布した。しかし初めて運用する内閣制度に清政府は慎重であり、『内閣官制』は施行されず、内閣は暫定版である『内閣弁事暫行章程』を根拠に成立した。
また、軍事上の問題については内閣(陸・海軍部)の管掌から外され、皇帝直轄の軍諮府(後の総参謀部)大臣である載濤が担当した。
内閣構成員
内閣の総理大臣・閣僚は下記のとおり。特に説明が無い限りは1911年5月8日(宣統3年4月10日)に任命され、11月1日(宣統3年9月1日)の内閣瓦解と共に解任された。日付は全てユリウス暦。
職名 | 氏名 | 所属 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
国務大臣 | 内閣総理大臣 | 慶親王奕劻 | 満人・宗室 | |
内閣協理大臣 | 那桐 | 満人 | 同時就任 | |
徐世昌 | 漢人 | |||
外務大臣 | 梁敦彦 | 漢人 | ||
民政大臣 | 粛親王善耆 | 満人・宗室 | 8月15日に理藩大臣に異動 | |
桂春 | 満人 | 9月4日から臨時代行 | ||
趙秉鈞 | 漢人 | 10月30日任命 | ||
度支大臣 | 鎮国公載澤 | 満人・宗室 | ||
学務大臣 | 唐景崇 | 漢人 | ||
陸軍大臣 | 廕昌 | 満人 | ||
海軍大臣 | 貝勒載洵 | 満人・宗室 | ||
司法大臣 | 紹昌 | 満人・覚羅 | ||
農工商大臣 | 貝子加貝勒銜溥倫 | 満人・宗室 | ||
郵伝大臣 | 盛宣懐 | 漢人 | 10月26日解任 | |
唐紹儀 | 漢人 | 10月26日任命。未着任で郵伝部右侍郎の呉郁生が代行 | ||
理藩大臣 | 寿耆 | 満人・宗室 | 8月15日に免職 | |
粛親王善耆 | 満人・宗室 | 8月15日に任命 | ||
都察院 | 都御史 | 張英麟 | 漢人 | |
弼徳院 | 院長 | 陸潤庠 | 漢人 | 7月10日解任 |
栄慶 | 漢人 | 7月10日任命 | ||
副院長 | 栄慶 | 漢人 | 7月10日に院長に任命 | |
鄒嘉来 | 漢人 | 7月10日任命 | ||
典礼院 | 掌院学士 | 李殿林 | 漢人 | 7月20日に礼部が典礼院に改められて任命される |
副掌院学士 | 郭曽炘 | 漢人 | 7月20日に礼部が典礼院に改められて任命される |
上記の表の通り、皇族と満州人が重要閣僚ポストを独占しており、6人いる漢人国務長官は徐世昌を除いて実権が無い名誉職であった。この組閣の失敗については、一般的に摂政王の載灃の責任が大きいとされる。
内閣属官
宣統3年5月27日(1911年6月23日)清朝廷は下記の内閣の属官人事を認可した。
- 閣丞:華世奎
- 承宣庁
- 制誥局
- 叙官局
- 統計局
- 印鋳局
- 法制院
- 参議:呉廷燮(11月20日(1912年1月8日)法制院副使を代行)、林炳章、徐宗溥、阮忠枢(12月15日(1912年2月2日)郵伝大臣を代行)[1]
影響
慶親王内閣は辛亥革命の波に対処できずに瓦解し、革命勢力を抑えるだけの力を持った袁世凱が次の内閣を組閣する。また、待望の内閣が蓋を開けてみるとこれまでと変わり映えのしない皇族内閣だったことは、立憲派と国内世論を失望させ、清朝には立憲君主制に移行する気が無いものとみなした国民を革命運動に傾倒させる一因となった。
参考文献
- ^ 銭実甫編,清代職官年表,北京:中華書局,1980年,p.3095.
書籍
- 謝彬 (1924年). 民國政黨史. 上海學術研究會叢書部. ISBN 978-7-101-05531-3