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* 同10年([[1860年]])正月、咸豊帝の満30歳を祝して[[貝勒]]に進む。
* 同10年([[1860年]])正月、咸豊帝の満30歳を祝して[[貝勒]]に進む。
* [[同治]]11年([[1872年]])9月、[[同治帝]]の結婚により更に[[爵位#清代の爵位|郡王]]位が与えられ、御前大臣に任じられる。
* [[同治]]11年([[1872年]])9月、[[同治帝]]の結婚により更に[[爵位#清代の爵位|郡王]]位が与えられ、御前大臣に任じられる。
* [[光緒]]10年3月([[1884年]])に咸豊帝の弟・[[恭親王]][[愛新覚羅奕キン|奕訢]]が失脚すると、後任として[[総理各国事務衙門]]を預けられ総理衙門大臣となる。
* [[光緒]]10年3月([[1884年]])に咸豊帝の弟・[[恭親王]][[愛新覚羅奕|奕訢]]が失脚すると、後任として[[総理各国事務衙門]]を預けられ総理衙門大臣となる。
* 同年10月、慶郡王に進む。
* 同年10月、慶郡王に進む。
* 同11年([[1885年]])、海軍力の集中運用を企図して[[総理海軍事務衙門]]が設立されると、その総理で奕訢の弟[[醇親王]][[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]の下で[[李鴻章]]と共に会弁に任命される。
* 同11年([[1885年]])、海軍力の集中運用を企図して[[総理海軍事務衙門]]が設立されると、その総理で奕訢の弟[[醇親王]][[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]の下で[[李鴻章]]と共に会弁に任命される。

2020年7月18日 (土) 02:37時点における版

愛新覚羅奕劻
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愛新覚羅氏
慶親王奕劻肖像(1899年、ヒューベルト・ボス画)

称号 慶親王
敬称 慶密親王(諡号)
出生 (1838-03-24) 1838年3月24日
清の旗 北京城
死去 (1917-01-28) 1917年1月28日(78歳没)
中華民国の旗 中華民国北京西城区定阜街3号慶親王府
子女 載振載𢱿載掄
父親 愛新覚羅綿性
役職 内閣総理大臣
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愛新覚羅奕劻
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慶親王奕劻

内閣 慶親王内閣
在任期間 1911年5月8日 - 1911年11月16日
皇帝 宣統帝
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愛新覚羅 奕劻(あいしんかくら えききょう、アイシンギョロ・イクワン、満州語:ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
ᡳ ᡴᡠᠸᠠᠩ
、転写:aisin-gioro i-kuwang、道光18年2月29日1838年3月24日[1] - 1917年民国6年)1月28日)は、末期から中華民国初期の皇族。乾隆帝の曾孫で咸豊帝又従兄に当たる。

生涯

輔国公中国語版綿性中国語版(慶僖親王永璘中国語版の六男)の長男として誕生、伯父の鎮国公綿悌中国語版の養子に入る。

家族

清の皇族は5人まで妻を持つことができたが、奕には6人の妻があった。このことからも彼が親王の中でも特別な地位にいたことが分かる。

6人の男子がいたが、三男・四男・六男は夭逝した。

この他に12人の女子がいたが、その中で三女・四女は常々西太后に付き従って遊んだり写真に写ったりしている。娘の1人は西太后の弟である承恩公桂祥中国語版の息子に嫁いでいる。

評価

過去の評価は「愚昧な汚職官吏」というものであった。しかし奕は清末の新政においてどちらかと言えば積極的な推進派であり、例えば沈家本の法制度構築を支持したりしている[3]

参考文献

  • 清史稿』巻二百二十一 列伝八 諸王七

脚注

  1. ^ 『道光十二年至宣统三年王公大臣年歳生日表』
  2. ^ 郭廷以『中華民国史事日誌』
  3. ^ 江庸『趨庭随筆』p.61。黄源盛『法律継受与近代中国法』第三章
公職
先代
創設
清の旗 内閣総理大臣
1911年5月8日 - 1911年11月16日
次代
袁世凱