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「愛新覚羅氏」の版間の差分

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清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。
清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。
*[[怡親王]](urgun cin wang)家 - [[康熙帝]]の第13子・[[愛新覚羅胤祥|胤祥]]が祖。
*[[怡親王]](urgun cin wang)家 - [[康熙帝]]の第13子・[[愛新覚羅胤祥|胤祥]]が祖。
*[[恭親王]](gungnecuke cin wang)家 - [[道光帝]]の第6子・[[愛新覚羅奕キン|奕訢]]が祖。
*[[恭親王]](gungnecuke cin wang)家 - [[道光帝]]の第6子・[[愛新覚羅奕|奕訢]]が祖。
*[[醇親王]](hatan cin wang)家 - 道光帝の第7子・[[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]が祖。奕譞の子が[[光緒帝]]、孫が[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]となる。
*[[醇親王]](hatan cin wang)家 - 道光帝の第7子・[[愛新覚羅奕ケン|奕譞]]が祖。奕譞の子が[[光緒帝]]、孫が[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]となる。
*[[慶親王]](fengšen cin wang)家 - [[乾隆帝]]の第17子・永璘が祖。永璘の孫[[愛新覚羅奕キョウ|奕劻]]が清末に[[軍機大臣]]として活躍し、世襲王家とされた。
*[[慶親王]](fengšen cin wang)家 - [[乾隆帝]]の第17子・永璘が祖。永璘の孫[[愛新覚羅奕キョウ|奕劻]]が清末に[[軍機大臣]]として活躍し、世襲王家とされた。

2020年7月18日 (土) 02:34時点における版

愛新覚羅氏
中国語
繁体字 愛新覺羅
簡体字 爱新觉罗
発音記号
標準中国語
漢語拼音Àixīn juéluó
満洲語
満洲文字
ᠠᡳᠰᡳᠨ ᡤᡳᠣᡵᠣ
アイシンギョロ

愛新覚羅氏(アイシンギョロし、あいしんかくらし)は、満洲(中国東北部)に存在した建州女真族(満洲民族)の姓氏で、清朝を打ち立てた後に中華を統一した家系。清の国姓である。アイシン(満洲語: ᠠᡳᠰᡳᠨ)は「」という意味の、かつて女真族が興した王朝名であり、そして後にヌルハチが興した王朝からとった族名(ムクン)、ギョロ(満洲語: ᡤᡳᠣᡵᠣ)はヌルハチの祖先が最初に定住した土地(現在の黒竜江省依蘭県一帯)の名を戴いた姓氏(ハラ)で、全体で「金の覚羅一族」を表す。漢字は満洲語読みに対する当て字であり意味は持っていない。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「」姓に取り替えた。なお、愛覚羅は誤字。

概略

ヌルハチは当初は単にギョロ姓を称していたが後金皇帝となったため、その血統を特別に形容して「アイシンギョロ」と呼ぶことにした。清朝ではヌルハチの祖父以上の家系のものは「覚羅(ギョロ)」とし、ヌルハチの父顕祖以下の子孫は「宗室」とされた。清朝皇族の系図は『玉牒』に収められている。

清朝皇族の爵位

  • 和碩親王(hošoi cin wang、ホショイ・チン・ワン、ホショしんのう)
  • 世子(šidz、スィズ、親王の嗣子)
  • 多羅郡王(doroi giyūn wang、ドロイ・ギュン・ワン、ドロぐんおう)
  • 長子(jangdz、ジャンズ、郡王の嗣子)
  • 多羅貝勒(doroi beile、ドロイ・ベイレ)
  • 固山貝子(gūsai beise、グサイ・ベイセ)
  • 鎮国公(gurun be dalire gung、グルン・ベ・ダリレ・グン)
  • 輔国公(gurun de aisilara gung、グルン・デ・アイシララ・グン)
  • 不入八分鎮国公(jakūn ubu de dosimbuhaku gurun be dalire gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・ベ・ダリレ・グン)
  • 不入八分輔国公(jakūn ubu de dosimbuhaku gurun de aisilara gung、ジャクン・ウブ・デ・ドシムブハク・グルン・デ・アイシララ・グン)
  • 鎮国将軍(gurun be dalire janggin、グルン・ベ・ダリレ・ジャンギン)
  • 輔国将軍(gurun de aisilara janggin、グルン・デ・アイシララ・ジャンギン)
  • 奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin、グルン・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)
  • 奉恩将軍(hesi be tuwakiyara janggin、ヘシ・ベ・トゥワキャラ・ジャンギン)

清朝皇族の爵位は通常1代ごとに降下する。特に功績がなければ親王の子は郡王、郡王の子は貝勒というように爵位が下がっていく。しかし、特に功績が大きかった皇族は世襲が認められ、爵位が降下しないことから鉄帽子王中国語版と呼ばれた。

  • 礼親王(doronggo cin wang)家 - ヌルハチの第2子・ダイシャン(代善)が祖。
  • 睿親王(mergen cin wang)家 - ヌルハチの第14子・ドルゴン(多爾袞)が祖。
  • 豫親王(erke cin wang)家 - ヌルハチの第15子・ドド(多鐸)が祖。
  • 粛親王(fafungga cin wang)家 - ホンタイジの長子・ホーゲ(豪格)が祖。清末に善耆川島芳子父娘が出る。
  • 承沢親王(kesingge cin wang)家 - ホンタイジの第5子・ショセ(碩塞)が祖。後に荘親王家と改称。
  • 鄭親王(ujen cin wang)家 - ヌルハチの弟シュルガチの子・ジルガラン(済爾哈朗)が祖。西太后の政敵粛順、鄭親王端華兄弟が出る。
  • 克勤郡王(kicehe giyūn wang)家 - 代善の長子ヨト(岳託)が祖。
  • 順承郡王(dahashūn giyūn wang)家 - 代善の子サハリャン(薩哈璘)の第2子勒克徳渾が祖。

これらの8家は建国にあたって特に功績が大きかったために他の皇族とは別格とされ、八大王家と呼ばれた。睿親王家はドルゴンが皇位を簒奪しようとしたとして廃絶されていたが、乾隆年間にドルゴンが名誉回復したために再興された。ドルゴンに連座して同母弟ドドも郡王に落とされていたが、同様に乾隆年間の名誉回復により親王家に戻された。

清の中期、末期には以下の4家も功績があったとして世襲が認められ、最終的には世襲王家は12家となった。

著名人

脚注

関連項目