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第44期(1984年度前期)棋聖戦で、自身4度目の本戦進出。 |
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第25期(1984年度)[[王位戦 (将棋)|王位戦]]で、予選トーナメントを4連勝で抜けてリーグ入り。山口が入った白組リーグのメンバーは、山口以外は全員タイトルを経験者であった(大山康晴、中原誠、内藤國雄、[[森 |
第25期(1984年度)[[王位戦 (将棋)|王位戦]]で、予選トーナメントを4連勝で抜けてリーグ入り。山口が入った白組リーグのメンバーは、山口以外は全員タイトルを経験者であった(大山康晴、中原誠、内藤國雄、[[森雞二]]、[[森安秀光]])。その中で森と森安から白星を挙げる健闘を見せたが、2勝3敗でリーグ残留はならなかった。 |
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第38期(1988年度)[[王将戦]]で二次予選2回戦まで進み、棋界随一の難関リーグ入りまであと2勝としたが、[[谷川浩司]](当時[[名人 (将棋)|名人]])に敗れる。 |
第38期(1988年度)[[王将戦]]で二次予選2回戦まで進み、棋界随一の難関リーグ入りまであと2勝としたが、[[谷川浩司]](当時[[名人 (将棋)|名人]])に敗れる。 |
2020年7月16日 (木) 23:08時点における版
山口千嶺 八段 | |
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名前 | 山口千嶺 |
生年月日 | 1937年6月11日 |
没年月日 | 2004年9月3日(67歳没) |
プロ入り年月日 | 1961年4月1日(23歳) |
棋士番号 | 81 |
出身地 | 茨城県水戸市 |
師匠 | 飯塚勘一郎八段 |
段位 | 八段 |
棋士DB | 山口千嶺 |
2017年8月24日現在 |
山口 千嶺(やまぐち ちみね、1937年6月11日 - 2004年9月3日)は、将棋棋士、八段。飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は81。茨城県水戸市出身。
棋歴
年ごとの好不調の波が激しい棋士であった。
1951年、奨励会に入会。
1960年度後期、奨励会A組(旧制度の三段リーグ)に初参加。関東優勝をし、関西の相馬清司三段[1]との東西決戦も制して、1期で突破する。これにより、1961年4月1日、四段昇段(プロ入り)した。
第18期(1963年度)C級2組順位戦で9勝3敗で2位の成績を収め、C級1組へ昇級。段位は五段となる。勝った相手の中には米長邦雄がいた。
第21期(1966年度)第21期C級1組順位戦では11勝1敗で1位となり、B級2組へ昇級。段位は六段となる。その後、いったんC級1組に落ちるが、第28期(1973年度)第28期C級1組順位戦で8勝2敗で2位となり、B級2組に復帰している。
第26期(1975年度前期)棋聖戦で、本戦トーナメントに進出。さらに、1回戦で晩年の塚田正夫永世九段を倒してベスト8。2回戦で二上達也に敗れる(二上は大山康晴棋聖への挑戦者となった)。第29期(1976年度後期)棋聖戦でも本戦進出。
1975年、38歳にして第7回(1976年度)新人王戦に出場し、ベスト4進出。
第9回(1976年度)早指し将棋選手権で予選を突破。本戦では3回戦に進出。
第33期(1978年後)棋聖戦で本戦に進むが、1回戦で二上達也に敗れる(二上は中原誠棋聖への挑戦者となった)。
1979年は成績不振であったが、第28回王座戦に星を集め、花村元司、芹沢博文を破り予選を突破。1980年度に行われた本戦トーナメントでは1回戦で内藤國雄に勝利(2回戦で大山康晴に敗れる)。
第44期(1984年度前期)棋聖戦で、自身4度目の本戦進出。
第25期(1984年度)王位戦で、予選トーナメントを4連勝で抜けてリーグ入り。山口が入った白組リーグのメンバーは、山口以外は全員タイトルを経験者であった(大山康晴、中原誠、内藤國雄、森雞二、森安秀光)。その中で森と森安から白星を挙げる健闘を見せたが、2勝3敗でリーグ残留はならなかった。
第38期(1988年度)王将戦で二次予選2回戦まで進み、棋界随一の難関リーグ入りまであと2勝としたが、谷川浩司(当時名人)に敗れる。
2003年に引退。翌年(2004年)9月3日、死去。享年67。
棋風
昇段履歴
- 1951年 奨励会入会
- 1961年4月1日 四段(関東奨励会A組優勝 + 東西決戦勝利) = プロ入り
- 1964年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1967年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1981年11月17日 七段(贈七段 = 「将棋の日」表彰)
- 2002年4月1日 八段(フリークラス規定)
- 2003年3月31日 引退
主な成績
在籍クラス
- 竜王戦 自己最高4組
- 順位戦 自己最高B級2組
脚注
- ^ 相馬清司は山口に敗れた後、二度と関西優勝をすることができず、1968年度後期を最後に奨励会A組を退き、準棋士(指導棋士)四段となっている。