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== 正史の事跡 ==
== 正史の事跡 ==
[[興平 (漢)|興平]]元年(194年)の[[エン州|兗州]]における[[張バク|張邈]]らの乱の際、叛いた[[薛蘭]]と[[李封]]に父の李乾が殺されたため、李整は曹操の指示により李乾の兵を統率した。
[[興平 (漢)|興平]]元年(194年)の[[エン州|兗州]]における[[張邈]]らの乱の際、叛いた[[薛蘭]]と[[李封]]に父の李乾が殺されたため、李整は曹操の指示により李乾の兵を統率した。


興平2年(195年)夏、諸将と共に薛蘭・李封を撃ち破った。続いて兗州諸県の平定に従って功績をあげ、やがて[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]になった。間もなく亡くなり、従兄弟の李典が軍を引き継いだ。
興平2年(195年)夏、諸将と共に薛蘭・李封を撃ち破った。続いて兗州諸県の平定に従って功績をあげ、やがて[[青州 (山東省)|青州]][[刺史]]になった。間もなく亡くなり、従兄弟の李典が軍を引き継いだ。

2020年7月15日 (水) 21:28時点における版

李 整(り せい、生没年不詳)は中国後漢末期の武将。父は李乾。従兄弟に李典がいる。曹操に仕えた。

正史の事跡

興平元年(194年)の兗州における張邈らの乱の際、叛いた薛蘭李封に父の李乾が殺されたため、李整は曹操の指示により李乾の兵を統率した。

興平2年(195年)夏、諸将と共に薛蘭・李封を撃ち破った。続いて兗州諸県の平定に従って功績をあげ、やがて青州刺史になった。間もなく亡くなり、従兄弟の李典が軍を引き継いだ。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

三国志書李典伝