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「降嫁」の版間の差分

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*[[島津貴子|清宮貴子内親王]](昭和天皇第五皇女子)- [[島津久永]]夫人
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*[[近衛やす子|甯子内親王]]([[三笠宮崇仁親王|崇仁親王]]第一女子)- [[近衞忠煇]]夫人
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*[[千容子|容子内親王]](崇仁親王第二女子)- [[千宗室 (16代)|千宗室]]夫人
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*[[黒田清子|紀宮清子内親王]]([[上皇明仁]]第一皇女子)- [[黒田慶樹]]夫人
*[[黒田清子|紀宮清子内親王]]([[上皇明仁]]第一皇女子)- [[黒田慶樹]]夫人

2020年7月15日 (水) 09:46時点における版

降嫁(こうか)とは、皇女王女皇族王族以外の男性に嫁ぐことをいう。日本では皇族女子の内親王女王が非皇族(臣下)に嫁ぐ場合を指す。

概要

内親王の結婚相手は律令の「継嗣令」では天皇もしくは四世以上の皇親に限るとされ、古代には非皇族との結婚はなかった。また、それ以外の皇親女子の婚姻に関する規定もほぼ同じであり、当時皇親としての法的扱いの範囲外とされ、皇親女子の称号であった「女王」を名乗ることのみが許されていた「五世王」(天皇の5代目の子孫)の女性と臣下の婚姻が認められるに過ぎなかった(なお、慶雲3年(706年)2月16日のによって、五世王と臣下の婚姻も禁じられている(『続日本紀』))。これらの禁令は天皇とその一族の持つ血縁に基づく尊貴性を保護維持するための政策(天皇の血縁者である女子を他の一族に婚出させない)に基づくものであったと考えられている。

ところが桓武天皇の延暦12年9月1日によって、大臣・良家の子孫には三世王(天皇の曾孫)以下との婚姻を許し、特に桓武天皇擁立に貢献があった藤原氏に対しては例外的に二世王(天皇の孫)との婚姻を許すことになった(『日本紀略』)。もっとも長年の伝統的観念は広く貴族社会に残り、平安時代に入っても二世王もしくは三世王との婚姻は数件しか行われなかった。だが、9世紀後期には次第に緩やかになっていき、10世紀中期に入ると、皇女が臣下に嫁ぐ例が見られるようになる。これを降嫁といい、皇女を妻に貰い受けることは男性にとっては非常に名誉な事とされ、主に平安中期に多く行われた(同時代の文学作品である『源氏物語』においても、大宮左大臣正室、頭中将葵の上の母)、女三宮光源氏正室)、落葉の宮柏木正室、のち夕霧と再婚)、女二宮正室)などの例が見られる)。

その後は女院の増加や内親王宣下の減少などにより、平安後期から鎌倉室町時代にかけて、内親王の降嫁は殆ど途絶える。江戸時代に入り五摂家への降嫁が復活、また幕末には和宮将軍徳川家茂に嫁し、唯一武家への降嫁の例となった。

なお内親王・女王は非皇族と結婚しても、本人の皇族としての身分はそのままであり、皇族を離れて嫁ぎ先の姓を名乗ることはなかった(このため厳密には「降嫁」ではないとする説もある)。しかし現代は皇室典範により、非皇族との結婚に際しては皇籍離脱が定められ、昭和天皇以降の内親王・女王は婚姻による皇籍離脱となっている。

旧皇室典範が施行されている時代においては、内親王の降嫁事例は存在しなかった。その後現行典範下において、孝宮和子内親王鷹司平通と婚姻することで89年ぶりに降嫁に相当する婚姻が発生した。以降も内親王は基本的に旧華族の当主または継嗣との婚姻を行ったが、このうち清宮貴子内親王においては華族出身ではあったが継嗣ではない(佐土原藩主家の次男である)島津久永と婚姻、狭義の「平民」に相当する人物と内親王との初の婚姻事例となる。その後三笠宮家出身の容子内親王が初めて、皇族・華族の血を直接引かない広義の平民出身者である千宗室[1]と婚姻、紀宮清子内親王が同様に天皇の皇女としては初めて平民出身者である黒田慶樹と婚姻している。

現在の皇室典範

皇室典範第十二条
皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

非皇族と婚姻(旧典範では降嫁)した内親王・皇族女子

皇女の降嫁の初例としてよく挙げられるのは、嵯峨天皇皇女源潔姫藤原良房の婚姻であるが、潔姫の場合は結婚前に既に姓を賜り臣籍に下っており[2]、内親王と臣下が結婚した初例は醍醐天皇皇女勤子内親王藤原師輔である。ただしこの時は父天皇の許可を得ていなかった[3]と見られ、天皇により内親王の降嫁が裁可されたのは、三条天皇皇女禔子内親王の例が最初とされる。

現在未婚の皇族女子

2024年12月25日現在
日本の皇室における内親王女王[4][5]
読み 御称号 生年月日 現年齢 続柄[6] 世数[7] 摂政就任順位
1 愛子内親王 あいこ 敬宮としのみや 2001年(平成13年)12月1日 23歳 皇女
今上天皇第一皇女子
一世 6
2 佳子内親王 かこ 1994年(平成6年)12月29日 29歳 皇姪
上皇の皇孫
文仁親王第二女子
二世 7
3 彬子女王 あきこ 1981年(昭和56年)12月20日 43歳 皇再従妹
大正天皇皇曾孫
寬仁親王第一女子
三世 8
4 瑶子女王 ようこ 1983年(昭和58年)10月25日 41歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
寛仁親王第二女子
三世 9
5 承子女王 つぐこ 1986年(昭和61年)3月8日 38歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
憲仁親王第一女子
三世 10

※順序は、摂政の就任順。(成年に達した場合の順序。皇位継承の順序に準ずる。)

脚注

  1. ^ 但し、江戸期から続く裏千家の家元である。
  2. ^ もっとも、勤子内親王と藤原師輔の婚姻以前に臣籍降下した皇女が臣下への降嫁した事例は源潔姫と藤原良房及び源順子藤原忠平の例しか存在しておらず、ともに当時としては破格の待遇であった。
  3. ^ 勤子内親王と藤原師輔の婚姻成立時期は不明であるが、延長8年(930年)に醍醐天皇が没しており、それ以後であった可能性がある。
  4. ^ 2021年(令和3年)10月26日眞子内親王皇籍離脱以降から現在の内親王女王一覧
  5. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁”. 宮内庁. 2021年12月24日閲覧。
  6. ^ 天皇及び親王からの続柄
  7. ^ 直系尊属天皇から数えた数

参考文献

  • 栗原弘「藤原良房と源潔姫の結婚の意義」(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年) ISBN 978-4-7517-3940-2 第二部第三章)

関連項目

外部リンク