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「慕容評」の版間の差分

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前燕の併呑を目論んでいた前秦天王[[苻堅]]は、慕容恪の死を格好の機会と思い、西戎主簿[[郭弁]]を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は身分を偽った上で鄴に入り込むと、[[司空]]皇甫真へ接近して取り入ろうと図ったが、皇甫真はこれを疑って郭弁を詳しく取り調べる様に要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。
前燕の併呑を目論んでいた前秦天王[[苻堅]]は、慕容恪の死を格好の機会と思い、西戎主簿[[郭弁]]を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は身分を偽った上で鄴に入り込むと、[[司空]]皇甫真へ接近して取り入ろうと図ったが、皇甫真はこれを疑って郭弁を詳しく取り調べる様に要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。


10月、前秦の晋公[[苻柳]]が[[永済市|蒲坂]]で、趙公[[苻双 (前秦)|苻双]]が[[秦州区|上邽]]で、魏公[[苻ソウ|苻廋]]が[[陝州区|陝城]]で、燕公[[苻武]]が[[ケイ川県|安定]]で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の[[魏尹]]・范陽王[[慕容徳]]は前秦を討つ絶好の機会であるとして「先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ(蒲坂・陝城・上邽・安定・長安)に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く』と申しますが、これは([[春秋時代]]の)[[呉 (春秋)|呉]]・[[越]]の興亡を見れば明白でございます。願わくば、皇甫真に并州・冀州の兵を与えて蒲坂を攻撃させ、慕容垂に許・洛(許昌と洛陽)の兵を与えて陝城の包囲を解かせ、太傅(慕容評)には京師(首都である鄴)の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で、三輔(前秦の本拠地である関中)へ檄文を飛ばして利害を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。 今こそ、天下平定の絶好の機会なのです!」と上疏して出兵を要請した。多くの群臣がこれに同意し、慕容暐もまたこれに大いに喜んで従おうとしたが、慕容評は「秦は大国であり、今国難に襲われているといえども、侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝が崩御したばかりである。また、我らの知略は太宰(慕容恪)には及ばない。今は関所を閉じて国境を固守するのが最良である。平秦(前秦平定)など荷が重すぎる」と述べて反対し、結局軍事行動を起こさなかった。最終的に反乱は前秦の[[王猛]]・[[トウ羌|鄧羌]]・[[張コウ (前秦)|張蚝]]・[[楊安]]・[[王鑒 (前秦)|王鑒]]らによって同年の内に鎮圧された。
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慕容恪は死ぬ間際に慕容垂を後任の大司馬に抜擢するよう求めていたが、慕容評は慕容垂の事を好ましく思っていなかったのでこの進言を用いておらず、大司馬職は空位となっていた。そして、[[368年]]2月には慕容垂ではなく中山王[[慕容沖]]を大司馬に抜擢した。
慕容恪は死ぬ間際に慕容垂を後任の大司馬に抜擢するよう求めていたが、慕容評は慕容垂の事を好ましく思っていなかったのでこの進言を用いておらず、大司馬職は空位となっていた。そして、[[368年]]2月には慕容垂ではなく中山王[[慕容沖]]を大司馬に抜擢した。

2020年7月12日 (日) 21:56時点における版

慕容 評(ぼよう ひょう、生没年不詳)は、五胡十六国時代前燕の人物。昌黎郡棘城県の出身。父は慕容廆。兄に慕容翰慕容皝(前燕の文明帝)・慕容仁慕容昭がおり、弟に慕容幼がいる。数多の武勲を挙げて前燕の中原進出に大きく貢献したが、摂政となってからは国家を腐敗させるようになり、滅亡に追いやった。

生涯

前燕の名将

慕容皝の時代

父は前燕の実質的な創建者といわれる慕容廆であった。

333年5月、慕容廆がこの世を去り、兄の慕容皝が大人位を継ぐと、慕容評は軍師将軍に任じられた。

11月、慕容評の兄である慕容仁・慕容昭は慕容皝が後継となる事を認めず、謀議してその誅殺を目論んだ。この計画は事前に露見して慕容昭は誅殺されたが、慕容仁は自らの治める平郭へ逃走を果たすと、慕容皝に反旗を翻した。

336年1月、慕容皝が慕容仁の守る平郭征伐の兵を興すと、慕容評はこれに従軍した。討伐軍は昌黎から凍結した海を東へ進撃し、およそ三百里余り進んで歴林口まで到達した。ここで輜重を捨てると、軽兵のみで平郭を奇襲した。平郭城から7里まで迫った所で慕容仁は敵の襲来を知り、これを慌てて迎え撃ったが、討伐軍は大いに攻め破り、慕容仁を捕らえて処刑した。

337年10月、慕容皝は群臣の勧めに応じて燕王に即位すると、慕容評は前軍師に任じられた。

339年4月、広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・盪寇将軍慕輿泥と共に後趙領の遼西へ侵攻し、千家余りを捕獲してから軍を帰還させた。帰還の途上、後趙の鎮遠将軍石成・積弩将軍呼延晃・建威将軍張支らより追撃を受けたが、慕容評はこれらを尽く返り討ちにして呼延晃・張支の首級を挙げた。

343年8月、安北将軍慕容儁と共に代国へ侵攻したが、代王拓跋什翼犍はその民を従えて別の地へ避難したので、慕容評らは戦うことなく引き返した。

348年9月、慕容皝がこの世を去ると、11月に嫡男である慕容儁が王位を継いだ。

慕容儁の時代

349年5月、輔弼将軍に任じられた。また、陽騖は輔義将軍に、慕容恪は輔国将軍に任じられ、慕容評は彼らと共に三輔と称され、来る中原攻略の大遠征軍の中核を任された。

350年2月、慕容儁が中原への侵攻を開始すると、慕容評はこれに従軍した。前燕軍は各地で戦勝を挙げ、後趙の主要都市である薊や鄴などの後趙の主要都市を傘下に入れた。

これより以前、冉閔が後趙から自立して冉魏を建国すると、後趙の殿中督であった賈堅は郷里の勃海郡に戻り、数千の兵を纏め上げて自立するようになった。同年9月、慕容評は軍を率いて勃海に到来すると、使者を派遣して賈堅に帰順を要請したが、賈堅は決して降らなかった。その為、賈堅の守る高城へ侵攻すると、これを陥落させて賈堅を捕らえた。功績により章武郡太守に任じられた(章武郡は元勃海郡の一部である)。

351年8月、魯口を守る後趙の幽州刺史王午討伐に向かった。慕容評が南皮まで軍を進めると、王午は配下の将軍鄭生を派遣して迎撃させたが、これを返り討ちにして鄭生を討ち取った。

352年4月、慕容恪は魏昌の廉台において冉閔を撃破し、その身柄を捕らえた。同月、慕容儁の命により、慕容評は中尉侯龕と共に精鋭騎兵1万を率いて出撃し、冉魏の本拠地であるを包囲した。冉魏の大将軍蒋幹皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外にいる将兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、人々は人肉を食べて飢えを凌ぐ有様であった。蒋幹は東晋へ使者を派遣して帰順の意志を示し、引き換えとして援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍戴施は壮士100人余りを率いて鄴へ突入すると、三台(鄴城内にある氷井台・銅雀台・金虎台の3つの宮殿を指す)の守備に当たった。蒋幹は自軍の精鋭五千と東晋軍を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを大破して4千の首級を挙げ、蒋幹は鄴城へ逃げ戻った。8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は城壁を越えて逃走し、倉垣へ奔った。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に慕容儁のいるへ送った。慕容儁は慕容評に鄴を鎮守するよう命じた。

352年11月、慕容儁が帝位に即いた。

354年3月、鎮南将軍・都督秦雍益梁江揚荊徐兗豫十州諸軍事に昇進し、洛水の鎮守を命じられた。

同年4月、司徒驃騎将軍に昇進し、上庸王に封じられた。これ以降、四公(太尉・司徒・司空・大司馬)の一角として朝政に参画するようになり、前燕が滅亡する時まで司徒の職務を務め続けた。

358年2月、上党郡太守馮鴦が前燕に反旗を翻すと、慕容評は討伐に当たるも攻略に手間取った。3月、慕容儁の命により、領軍将軍慕輿根が慕容評軍の加勢として到来した。慕輿根が急攻しようとすると、慕容評は「馮鴦は砦を固めているから、その心を緩めるべきであろう」と諫めた。だが、慕輿根は「そうではありません。公(慕容評)は城下に至って月を経ておりますが、未だに一度も交戦しておりません。賊は我が国家の力がこの程度だと考え、万一の僥倖を願っております。今、我の兵がやってきた事で形勢が変わり、賊は恐れてみな離心を生じ、計を定められずにおります。これを攻めれば必ずや勝利を得られる事でしょう」と反論すると、慕容評もまたこれに応じて急攻を決行した。予想通り馮鴦は配下との間に互いに疑いを生じた末、野王へ逃走して呂護を頼り、その兵は皆降伏した。

9月、并州で一大勢力を保っていた張平を攻撃し、征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らを始め138の砦を降伏させた。張平は3千の兵を伴って平陽へ逃走すると、前燕に謝罪して降伏を請うた。

359年8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕へ侵攻すると、石門より侵入して黄河の中州に駐屯した。諸葛攸は配下の匡超を碻磝に進ませ、蕭館を新柵に配置し、さらに督護徐冏には水軍三千を与えて進ませ、東西より気勢を上げた。慕容評は長楽郡太守傅顔と共に5万の歩兵・騎兵を率いて東阿において迎え撃つと、諸葛攸を大敗させた。

国政の第一人者へ

慕容暐を輔政

360年1月、慕容儁が崩御し、嫡男の慕容暐が即位した。死の間際、慕輿根は慕容儁より呼び出されると、大司馬慕容恪・領軍将軍慕輿根・司空陽騖と共に慕容暐の輔政を託された。

2月、慕容評は太傅に任じられ、太宰慕容恪・太師慕輿根と共に輔政の任についた。その中でも慕容恪が朝臣の筆頭に立てられたが、彼は決して専断する事は無く、必ず政務に関しては慕容評と合議したという。

慕輿根は朝廷を混乱させて自らが朝廷の実験を掌握しようと考えており、武衛将軍慕輿干と結託して慕容恪と慕容評の誅殺を目論んだ。その為、可足渾皇太后と慕容暐へ向けて「太宰(慕容恪)と太傅(慕容評)が謀反を企てております。臣が禁兵(近衛兵)を率いて彼らを誅殺し、社稷を安んじることをお許しください」と偽りの進言を行った。可足渾氏はこれを信用して許可しようとしたが、慕容暐が「二公は国家の親賢(親族の賢臣)です。先帝により選ばれ、孤児と寡婦(慕容暐と可足渾氏)の補佐をしてくれているのです。必ずやそのような事はしません。それに、太師こそが造反を考えているのでないとも限らないでしょう!」と反対したため、取りやめとなった。やがて慕輿根の計画が露見すると、慕容評は慕容恪と共に謀議して密かに慕輿根の罪状を奏上した。これにより慕輿根は秘書監皇甫真・右衛将軍傅顔により捕らえられると、宮殿内で誅殺された。彼の妻子や側近も同じく罪に伏して処刑され、慕輿根ともども首は東市に晒された。

361年2月、方士の丁進は慕容恪へ、慕容評を殺して政権を独占するよう説いたが、慕容恪は激怒し上奏して丁進を捕え、これを斬った。

364年2月、龍驤将軍李洪と共に河南へ侵攻すると、許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とした。さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。

366年3月、国内で水害や旱魃が多発するようになると、慕容評は慕容恪と共に頓首して辞職を願い出たが、慕容暐はこれを認めずにその上表を破り捨てた。

367年5月、慕容恪が病により重篤に陥った。慕容恪は慕容評の猜疑心が強い事から、自らの死後には才覚ある人間を取り立てないのではないかと憂慮していた。その為、慕容評へ向けて、弟の呉王慕容垂大司馬に取り立てて六軍を統率させる様に言い残した。また、慕容暐の庶兄の安楽王慕容臧へも同様の進言を行った。やがて慕容恪が病死すると、慕容評は可足渾皇太后と共に朝臣の筆頭として国政を統括するようになった。

慕容垂との対立

前燕の併呑を目論んでいた前秦天王苻堅は、慕容恪の死を格好の機会と思い、西戎主簿郭弁を密かに鄴へ派遣して内情を探らせた。郭弁は身分を偽った上で鄴に入り込むと、司空皇甫真へ接近して取り入ろうと図ったが、皇甫真はこれを疑って郭弁を詳しく取り調べる様に要請したが、慕容評はこれを聞き入れなかった。

10月、前秦の晋公苻柳蒲坂で、趙公苻双上邽で、魏公苻廋陝城で、燕公苻武安定で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして「先帝は天命に従い、天下を統一しようと志し、陛下はその後を継いでこれを成就なさっております。今、苻氏では骨肉の争いが起こり、国が五つ(蒲坂・陝城・上邽・安定・長安)に別れました。そして、我が国へ降伏する者も相継いでおります。これは秦を燕へ贈ろうという天の御心でございます。『天の与えたるを取らざれば、却ってその殃を受く』と申しますが、これは(春秋時代の)の興亡を見れば明白でございます。願わくば、皇甫真に并州・冀州の兵を与えて蒲坂を攻撃させ、慕容垂に許・洛(許昌と洛陽)の兵を与えて陝城の包囲を解かせ、太傅(慕容評)には京師(首都である鄴)の兵を与えて出撃させてくださいますよう。その上で、三輔(前秦の本拠地である関中)へ檄文を飛ばして利害を説き、賞罰を明確にすれば、敵は風に靡くように我が軍のもとへ馳せ参じましょう。 今こそ、天下平定の絶好の機会なのです!」と上疏して出兵を要請した。多くの群臣がこれに同意し、慕容暐もまたこれに大いに喜んで従おうとしたが、慕容評は「秦は大国であり、今国難に襲われているといえども、侮る事は出来ん。それに我らの国は朝廷こそ1つであるが、先帝が崩御したばかりである。また、我らの知略は太宰(慕容恪)には及ばない。今は関所を閉じて国境を固守するのが最良である。平秦(前秦平定)など荷が重すぎる」と述べて反対し、結局軍事行動を起こさなかった。最終的に反乱は前秦の王猛鄧羌張蚝楊安王鑒らによって同年の内に鎮圧された。

慕容恪は死ぬ間際に慕容垂を後任の大司馬に抜擢するよう求めていたが、慕容評は慕容垂の事を好ましく思っていなかったのでこの進言を用いておらず、大司馬職は空位となっていた。そして、368年2月には慕容垂ではなく中山王慕容沖を大司馬に抜擢した。

慕容評が執政して以降、王公貴族や豪族らは密かに多くの戸籍を隠し持つようになっていた。同年9月、広信公悦綰は慕容暐へ、諸々の蔭戸(私的に抱えている戸籍)を廃して郡県に返還する様進言すると、慕容暐はこれに同意し、悦綰に命じてこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、王公は不正を隠し通すことが出来ず、公民は20万戸も増員する事が出来た。だが、私腹を肥やしていた官民たちはこの措置に大いに憤り、慕容評もこれを大いに不満とした。11月、慕容評は賊を派遣して悦綰を暗殺した[1]

369年4月、東晋の大司馬桓温が前燕征伐の兵を挙げた。前燕の諸将は各地で桓温に敗戦を重ね、楽安王慕容臧の率いる主力軍も抗する事が出来ず、遂に東晋軍は枋頭まで到達した。7月、慕容評はこれを大いに恐れ、慕容暐を伴って鄴を離れて旧都である龍城まで後退しようとしたが、呉王慕容垂が「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません」と訴えた。慕容暐はこれを認め、慕容垂を南討大都督に任じて5万の兵を率いて迎撃を命じると共に、前秦に虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請した。

9月、慕容垂は率いる前燕軍は各地で勝利を収めると共に敵軍の糧道を断ち、桓温軍を退却させた。さらには援軍に来た前秦軍と共に桓温軍を追撃し、大いに戦果を挙げた。

この戦功により慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は益々彼を忌避するようになった。その後、慕容垂は「今回募った将士は、みな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と上奏したが、慕容評はこれを慕容暐に通さずに握りつぶしてしまった。だが、慕容垂は幾度もこの事を要請し、遂には慕容評と朝廷で言い争うようになった。これにより、両者の対立は決定的なものとなった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っていたので、慕容評は彼女と共に慕容垂誅殺の謀略を巡らせるようになった。

11月、慕容垂は災いを避けるために密かに龍城へ移ろうと思い、狩猟に出ると称して平服で鄴を出奔した。だが、邯鄲にいる慕容麟(慕容垂の子)がこの事実を告訴したので、慕容評は慕容暐へこの事を訴えると共に、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。その為、慕容垂は進路を変更して洛陽に入ると、前秦に亡命した。

慕容徳・車騎従事中郎高泰らは慕容垂と仲が良かったので、慕容評は彼らをみな免官とした。尚書右丞申紹は慕容評へ「今、呉王(慕容垂)が出奔したことで、外ではあちこちでその事が言いはやされています。王の僚属の中でも賢明な人物を昇進させる事で、いらぬ噂を消し去るべきです」と勧めると、慕容評は「誰にすべきか」と問うた。申紹は「高泰がもっとも適任です」と答えたので、慕容評は高泰を尚書郎に抜擢した。

忠言を無視

同月、前秦へ使者として赴いていた大鴻臚梁琛と苟純が鄴に帰還した。梁琛は慕容評へ「秦では日夜軍事訓練が行われ、多量の兵糧が陝東へ運び込まれております。我が見ますに、今の平和は長くは続きますまい。呉王垂も秦へ亡命してまった事で、秦は必ずや我らの隙を衝く事でしょう。すぐにでも防備を固められますよう」と進言したが、慕容評は「叛臣を受け入れて平和を破るなど、秦がそのような真似をする訳がなかろう!」と反論した。だが、梁琛は「今、中原が二つに別れて対立しているのは、互いに相手を併呑せんと画策した為ではありませんか。桓温の来寇により秦が援軍を出したのは、我らとの友好によるものではありません。もし燕に隙を見つければ、どうして彼らが本来の志を忘れましょうか!」と訴えた。また、慕容評は「秦主(苻堅)はどの様な人物であったか」と問うと、梁琛は「明哲であり、決断力を有しております」と答えた、また、王猛についても問うと「彼の名声は、虚名ではありますまい」と答えた。これに慕容評は「我の聞いている話とは異なる。汝は主君を脅すというのか!」と述べて取り合わなかった。梁琛は慕容暐にも同様に前秦の襲来に備えるよう訴えたが、彼もまた応じなかった。

その為、梁琛は皇甫真へも相談を持ち掛けると、皇甫真は深くこれを憂慮し、慕容暐へ上疏して「苻堅と我らは互いに使者を往来させ、輔車の関係を保っておりますが、隣敵として等しく抗しあっており、国の勢いも同一です。利があればそちらを優先するのは明らかであり、慕善の心などありません。久要(旧約)を崇めるために信を守ち、和を存続させる事などありはしないのです。近頃は行人の往来を重ねており、またその軍は洛川まで出てきましたが、これは行軍路や要害の地、また国家の内情について細かく調査するためなのです。虚実をよく調べて奸計を練り、風塵(内乱)を聞いて国の隙を窺うは、侵攻する上での常道です。今、呉王(慕容垂)が外奔(亡命)しており、敵は彼を謀主となすでしょうから、伍員(伍子胥)の禍に備えなければなりません(の伍子胥は災いを避けて呉へ亡命し、後に楚を滅ぼした)。洛陽・并州・壷関の諸城に命じ、増兵して守備を固め、有事に備えられますように」と訴えた。これを受け、慕容暐は慕容評を呼び出してこの事を問うた。だが、慕容評は「秦は弱小であり、我らの力を頼みとしております。それに、苻堅は国交にはそれなりに気を配っております。亡命者(慕容垂)の口車に乗り、交流を断絶するような事はしないでしょう。それより、軽率に動いて相手を警戒させる事が紛争の種となるでしょう」と反論し、結局軍備増強に動く事は無かった。

前秦の黄門郎石越が使者として到来すると、慕容評は前燕の富盛を誇示する為、盛大にもてなした。尚書郎高泰・太傅参軍劉靖は慕容評へ「石越という人物は、その言葉は出鱈目であり、その目は遠くしか見ておりません。あれは友好の使者ではなく、我が国の隙を見つけに来たのでしょう。ここは軍事訓練を派手に見せ、奴らの意気を喪失させるべきかと。豪奢な様を見せつけているだけでは、益々我らを侮ることでしょう」と進言したが、慕容評は従わなかった。高泰はこれに失望し、病気と称して職を辞した。

前秦襲来

王猛との決戦

桓温が前燕へ侵攻した時、慕容暐は前秦に虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請していたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しむようになり、前秦へ使者を派遣して「(割譲の約束は)使者の失言です。国を保ち家を保つ者として、災害の時に助け合うのは、当然の理でしょう」と告げ、約束を反故にした。

苻堅は激怒して輔国将軍王猛らに歩3万を与えて前燕へ侵攻させ、12月には洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。370年1月、慕容臧が精鋭10万を従えて洛陽救援に向かうも大敗を喫し、戦意喪失した慕容筑は洛陽ごと降伏した。

5月、苻堅は王猛を総大将に任じると、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。8月、前秦襲来の報が届くと、慕容暐の命により慕容評は中外の精鋭30万[2]を率いて迎撃に向かった。王猛は壷関を陥落させて上党郡太守慕容越を捕らえ、9月には晋陽を陥落させて前燕の并州刺史慕容荘を捕らえた。慕容評は前秦軍の勢いに恐れを抱き、潞川に軍を留めた。

10月、王猛が潞川へと進んで慕容評軍と対峙すると、慕容評は王猛軍が敵中に深入りしている事から持久戦に持ち込もうとした。だが、王猛は密かに夜襲を計画すると、游撃将軍郭慶に精鋭五千を与えて夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により慕容評軍の輜重は焼き尽くされ、この炎は鄴からも見える程凄まじかったと言う。

慕容暐はこれに驚愕し、侍中蘭伊を派遣して慕容評へ「王(慕容評)は高祖(慕容廆)の子であり、宗廟社稷を憂えるべきであるに、将兵を慰撫せずに、なぜに材木や水を独占してその利益をかき集めているのか!官庫に山積する財宝を朕は王と共有しておるのに、なぜに貧しさを憂えているのか!もし賊が進撃して国を滅ぼしてしまえば、王はかき集めた銭帛をどこに収容するというのか!かき集めた銭帛は全て兵卒へ分け与え、これを督して速やかに戦闘するように!」と詰ったので、慕容評は大いに恐れ、王猛へ使者を送って決戦を告げた。

王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させ、慕容評の陣営を蹂躙して数えきれない程の将兵を殺傷した。これにより日中には慕容評軍は潰滅し、捕虜や戦死した兵はゆうに5万を超えた。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。大敗を喫した慕容評は単騎で鄴まで逃げ戻った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。

国家滅亡

11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて出征し、王猛と合流して鄴を攻め立てた。前燕の散騎侍郎余蔚(前燕に捕らえられていた夫余国玄王の子。後の夫余王)は夫余・高句麗・上党の人質500人余りを率い、鄴の北門を開いて前秦軍を迎え入れたので、慕容評は慕容暐や慕容臧と共に龍城へ逃走を図った。慕容評は無事に退却する事が出来たが、慕容暐は前秦の游撃将軍郭慶に高陽で捕らえられてしまった。さらに、郭慶は進軍を続けて龍城へも迫ると、慕容評はさらに高句麗へ亡命したが、高句麗により捕らえられて前秦へ送還した。これにより前燕は滅亡した。慕容評の屋敷には大量の財宝が残されていたが、全て押収されたという。

最期

12月、慕容評は苻堅により給事中に任じられた。

372年2月、慕容垂は苻堅へ、前燕滅亡の原因を作ったのは慕容評であるとして、誅殺するよう請うた。苻堅は処刑については認めなかったが、慕容評を范陽郡太守に任じて地方へ追いやった。

やがて在任中に卒したという。

人物・評価

慕容評はいつも財貨を稼ぐことに執着し、その貪欲さに限りは無く、見識は浅薄であったという。軍事の才能はあったものの、摂政としては無能であり、特に慕容恪の没後は大いに朝政を腐敗させるようになった。彼が朝政を主管していた時代、上流階級の間でも賄賂が横行するようになり、官吏の推挙も才によって決まらなくなったので、群臣には怨嗟の声が溜まったという(但しこれは可足渾皇太后が国政に干渉して混乱させていた事も原因であるという)。また、王公貴族や豪族らは密かに多くの戸籍を隠し持つようになり(慕容評もその一人である)、国が徴収する租税が著しく減少していたので、官吏への俸給や士卒への食糧供給にも苦労する有様であった。369年、尚書左丞申紹はこの状況を憂えて守宰(郡太守や県知事)の人選見直しと増えすぎた官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行う様上疏したが、慕容評が聞き入れる事はなかった。

また、潞川において前秦の総大将王猛と対峙している国家存亡の最中にあっても、山間の泉水を包囲して断つ事で資源を独占し、それにより得た散木や水を売り捌き、金銭や布帛を山のように積んでいた。士卒はみなこの事に不満を抱いており、その士気は大いに低下していた。王猛はこれを知ると「慕容評は全く無能である。億兆の兵を率いていたとしても、畏れる必要は無い。ましてや数10万程度など、赤子の手を捻るに等しい。必ずや撃破して見せよう」と言い放ち、乗じる隙が大いにあると考えたという。

『資治通鑑』の著者である司馬光は「古の人は自らの国が滅んでも喜ぶことがあった。それはどうしてか。害が除かれるからである。慕容評は主君を蔑ろにして朝政を専断し、賢人を避けて功を妬み、暗愚にして欲深く残虐であった。かくして国を失う事になったのである。さらには国が滅んでも死を選ぶことなく、逃遁していた所を捕らえられたのだ」と述べ、慕容評を酷評している。また、その後には慕容評を誅殺せずに仕官を赦した苻堅の対応についても非難している。

脚注

  1. ^ 『資治通鑑』では病死とされている
  2. ^ 『晋書』には40万と記される

参考文献