「劉珍 (漢)」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 「トウ」→「鄧」の改名に伴うリンク修正依頼 (鄧綏) - log |
|||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
若くして学問を好んだ。[[永初 (漢)|永初]]年間、謁者僕射となった。[[110年]](永初4年)<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>、太后の[[ |
若くして学問を好んだ。[[永初 (漢)|永初]]年間、謁者僕射となった。[[110年]](永初4年)<ref>『[[後漢書]]』安帝紀</ref>、太后の[[鄧綏]]の命により校書の{{仮リンク|劉トウト|zh|劉騊駼|label=劉騊駼}}・[[馬融]]や[[五経博士]]とともに東観の『[[五経]]』や諸子の伝記や百家の芸術の校定をおこない、誤脱を整理し、文字を正した。[[120年]]([[永寧 (漢)|永寧]]元年)、太后の命により劉騊駼とともに『建武已来名臣伝』を作り、[[侍中]]・越騎校尉に転じた。[[125年]]([[延光]]4年)、[[宗正]]に任じられた。[[126年]]([[永建 (漢)|永建]]元年)、[[衛尉]]に転じた。後に在官のまま死去した。 |
||
かれによって著された誄・頌・連珠は合わせて7篇あった。また『[[東観漢記]]』22篇や『釈名』30篇を編纂した。 |
かれによって著された誄・頌・連珠は合わせて7篇あった。また『[[東観漢記]]』22篇や『釈名』30篇を編纂した。 |
2020年7月12日 (日) 21:54時点における版
劉珍(りゅう ちん、生年不詳 - 126年頃)は、後漢の官僚・文人。字は秋孫、あるいは秘孫。またの名は宝。本貫は南陽郡蔡陽県。
経歴
若くして学問を好んだ。永初年間、謁者僕射となった。110年(永初4年)[1]、太后の鄧綏の命により校書の劉騊駼・馬融や五経博士とともに東観の『五経』や諸子の伝記や百家の芸術の校定をおこない、誤脱を整理し、文字を正した。120年(永寧元年)、太后の命により劉騊駼とともに『建武已来名臣伝』を作り、侍中・越騎校尉に転じた。125年(延光4年)、宗正に任じられた。126年(永建元年)、衛尉に転じた。後に在官のまま死去した。
かれによって著された誄・頌・連珠は合わせて7篇あった。また『東観漢記』22篇や『釈名』30篇を編纂した。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻80上 列伝第70上