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捕虜とされた更始帝は、樊崇らによって処刑されそうになったが、謝禄は[[劉恭 (式侯)|劉恭]](劉盆子の兄)と共に助命を進言している。辛うじて命を永らえた更始帝は、謝禄を頼って常にその側にあった。ところが、更始帝に兵変を仕掛けたことのある[[張ゴウ|張卬]]は、更始帝からの報復を恐れ、何とか亡き者にしようとしていた。張卬は、更始帝が他の将に奪われれば謝禄の身が危なくなる、などと唆し、ついに謝禄はこれに引っかかって、部下に命じて更始帝を絞殺してしまったのである。
捕虜とされた更始帝は、樊崇らによって処刑されそうになったが、謝禄は[[劉恭 (式侯)|劉恭]](劉盆子の兄)と共に助命を進言している。辛うじて命を永らえた更始帝は、謝禄を頼って常にその側にあった。ところが、更始帝に兵変を仕掛けたことのある[[張ゴウ|張卬]]は、更始帝からの報復を恐れ、何とか亡き者にしようとしていた。張卬は、更始帝が他の将に奪われれば謝禄の身が危なくなる、などと唆し、ついに謝禄はこれに引っかかって、部下に命じて更始帝を絞殺してしまったのである。


赤眉軍の支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。周辺勢力との戦いも続き、建世2年([[26年]])9月、逄安が赤眉軍の主力部隊を率いて杜陵(京兆尹)に駐屯していた[[延岑]]・[[李宝]]の討伐に向かったところ、[[光武帝]](劉秀)の[[司徒|大司徒]][[トウ禹|鄧禹]]が長安を急襲してきた。そこへ謝禄が急遽駆けつけ、長安城内での市街戦の末に、鄧禹を敗走させている。しかし、肝心の逄安が延岑・李宝に大敗し、赤眉軍の主力部隊は壊滅的打撃を受けた。その上、糧食がつきてしまったこともあり、同年12月、赤眉軍の諸将は東へ帰る決断をしたのである。
赤眉軍の支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。周辺勢力との戦いも続き、建世2年([[26年]])9月、逄安が赤眉軍の主力部隊を率いて杜陵(京兆尹)に駐屯していた[[延岑]]・[[李宝]]の討伐に向かったところ、[[光武帝]](劉秀)の[[司徒|大司徒]][[鄧禹]]が長安を急襲してきた。そこへ謝禄が急遽駆けつけ、長安城内での市街戦の末に、鄧禹を敗走させている。しかし、肝心の逄安が延岑・李宝に大敗し、赤眉軍の主力部隊は壊滅的打撃を受けた。その上、糧食がつきてしまったこともあり、同年12月、赤眉軍の諸将は東へ帰る決断をしたのである。


=== 後漢への降伏と最期 ===
=== 後漢への降伏と最期 ===

2020年7月12日 (日) 21:44時点における版

謝 禄(しゃ ろく、生没年不詳)は、中国代から後漢初期にかけての武将。子奇徐州東海郡臨沂県の人。新代に蜂起した農民軍の赤眉軍における有力部将の一人である。

事跡

初期の事跡

姓名 謝禄
時代 - 後漢
生没年 〔不詳〕
字・別号 子奇(字)
本貫・出身地等 徐州東海郡臨沂県
職官 〔赤眉軍部将〕→右大司馬〔劉盆子〕 
爵位・号等 列侯〔更始〕
陣営・所属等 樊崇劉盆子光武帝
家族・一族 〔不詳〕

新代に徐州青州が大飢饉に見舞われ、盗賊が各地に蔓延するようになると、泰山郡で挙兵していた樊崇の傘下へ、琅邪郡出身の逄安、同郷の徐宣楊音と共に加わった。地皇3年(22年)、王莽は、赤眉軍を討伐するために、更始将軍・平均公廉丹、太師王匡の軍を派遣したが、赤眉軍はこれを撃破し、廉丹を討ち取っている。

更始1年(23年)10月、洛陽に遷都した更始帝(劉玄)に樊崇らと共に降り、謝禄は列侯に封じられている。しかし、赤眉軍の諸将は領地を与えられず、養えなくなった部下の兵士が逃走し始めたため、洛陽から逃亡して再び自軍の下に戻った。赤眉軍は潁川郡に入り、軍を2つに分け、一軍を樊崇が率い、もう一軍を徐宣が率い、謝禄は楊音と共に徐宣の指揮下に加わっている。徐宣軍は陽翟、梁(潁川郡)を攻略して河南太守を斬った。

赤眉軍は連戦連勝しながらも疲弊し、兵士たちは東へ帰ることを求め始めた。樊崇らは、東へ戻れば軍が瓦解すると判断し、あくまで更始帝の拠る長安へ進攻することにしている。更始2年(24年)冬、樊崇軍は武関から、徐宣軍は陸渾関から、それぞれ三輔へ進入し、翌更始3年(25年)1月には弘農郡で両軍が合流した。

劉盆子擁立と更始帝殺害

赤眉軍はさらに更始軍を撃破して、華陰(弘農郡)に到達する。ここで、同年6月、赤眉軍は劉盆子を皇帝に擁立して、建世元年と号し、謝禄は右大司馬に任命されている。その後赤眉軍は、長安を攻め落として更始政権を滅ぼした。

捕虜とされた更始帝は、樊崇らによって処刑されそうになったが、謝禄は劉恭(劉盆子の兄)と共に助命を進言している。辛うじて命を永らえた更始帝は、謝禄を頼って常にその側にあった。ところが、更始帝に兵変を仕掛けたことのある張卬は、更始帝からの報復を恐れ、何とか亡き者にしようとしていた。張卬は、更始帝が他の将に奪われれば謝禄の身が危なくなる、などと唆し、ついに謝禄はこれに引っかかって、部下に命じて更始帝を絞殺してしまったのである。

赤眉軍の支配は乱脈の限りで、長安やその周辺で略奪狼藉を繰り返した。周辺勢力との戦いも続き、建世2年(26年)9月、逄安が赤眉軍の主力部隊を率いて杜陵(京兆尹)に駐屯していた延岑李宝の討伐に向かったところ、光武帝(劉秀)の大司徒鄧禹が長安を急襲してきた。そこへ謝禄が急遽駆けつけ、長安城内での市街戦の末に、鄧禹を敗走させている。しかし、肝心の逄安が延岑・李宝に大敗し、赤眉軍の主力部隊は壊滅的打撃を受けた。その上、糧食がつきてしまったこともあり、同年12月、赤眉軍の諸将は東へ帰る決断をしたのである。

後漢への降伏と最期

建世3年(27年)、赤眉軍は、鄧禹軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走したが、崤底(弘農郡黽池県)で馮異率いる漢軍に大敗した。赤眉軍は宜陽(弘農郡)へ逃れたが、ここで光武帝らが率いる漢の大軍に正面を防がれ、ついに樊崇・徐宣・謝禄以下30人の赤眉軍の将は肉袒(上半身を肌脱ぎ)して降伏した。

謝禄は妻子と共に洛陽に移住したが、後に(正確な時期は不明)劉恭により、更始帝の仇として殺害されてしまった。

参考文献

  • 後漢書』列伝1劉盆子伝、劉玄伝

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