コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「耿純」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
64行目: 64行目:
*射犬郷に赤眉、青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の流賊の十余万人が集まった時、劉秀はこれを討たんとし、耿純はその前衛であったので、夜間に賊に攻められた。矢は雨の如く降り、兵士の多くが死傷した。耿純は部隊を統率し、堅く守って動かなかった。次に二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ってそれぞれ三つ矢をつがえ、枚をふくんで(兵が喋られず、音で気づかれないように)、こっそりと抜け道を通り賊の後ろに出て声を上げさせ、強弩を撃たせたので、賊は驚き逃れようとし、これを追撃して遂には破った。
*射犬郷に赤眉、青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の流賊の十余万人が集まった時、劉秀はこれを討たんとし、耿純はその前衛であったので、夜間に賊に攻められた。矢は雨の如く降り、兵士の多くが死傷した。耿純は部隊を統率し、堅く守って動かなかった。次に二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ってそれぞれ三つ矢をつがえ、枚をふくんで(兵が喋られず、音で気づかれないように)、こっそりと抜け道を通り賊の後ろに出て声を上げさせ、強弩を撃たせたので、賊は驚き逃れようとし、これを追撃して遂には破った。
*東郡太守を罷免された後、光武帝が[[董憲]]を撃った後の帰途に従って、耿純も行軍していた。隊列が東郡を通りがかると、、民衆の老若数千人が天子の車駕に群がり、「お願いします、耿純様を太守に返してください」と泣きながら訴えた。光武帝はこれを聞いて「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めてこれほど良く慕われるとは」と言った。
*東郡太守を罷免された後、光武帝が[[董憲]]を撃った後の帰途に従って、耿純も行軍していた。隊列が東郡を通りがかると、、民衆の老若数千人が天子の車駕に群がり、「お願いします、耿純様を太守に返してください」と泣きながら訴えた。光武帝はこれを聞いて「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めてこれほど良く慕われるとは」と言った。
*耿純の従兄弟、耿植は輔威将軍と為り武邑侯に封じられ、耿宿は代郡太守と為り遂郷侯に封じられ、耿訢は赤眉将軍と為り著武侯と封じられて、[[トウ禹|鄧禹]]に従いて西征するも戦死した。
*耿純の従兄弟、耿植は輔威将軍と為り武邑侯に封じられ、耿宿は代郡太守と為り遂郷侯に封じられ、耿訢は赤眉将軍と為り著武侯と封じられて、[[鄧禹]]に従いて西征するも戦死した。


== 注 ==
== 注 ==

2020年7月12日 (日) 21:43時点における版

耿 純(こう じゅん、? - 37年)は、後漢の武将。字は伯山(はくざん)。鉅鹿郡宋子県(河北省趙県)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。後漢・光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の13位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

略歴

姓名 耿純
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 37年建武13年)
字・別号 伯山(字)
本貫・出身地等 冀州鉅鹿郡宋子県
職官 納言士〔新〕→騎都尉〔更始〕

→前将軍〔劉秀(後漢)〕
→東郡太守〔後漢〕
太中大夫〔後漢〕
→東郡太守〔後漢〕

爵位・号等 耿郷侯〔劉秀〕→高陽侯〔後漢〕

→東光侯〔後漢〕→東光成侯〔没後〕

陣営・所属等 王莽更始帝光武帝(劉秀)
家族・一族 父:耿艾 子:耿阜

一族:耿訢〔従兄弟〕 耿宿〔従兄弟〕
耿植〔従兄弟〕

挙兵

父の耿艾は済平尹(新制における定陶郡の太守)となり、耿純は長安に学び、納言の士(新制における尚書)となる。王莽が敗れて更始帝が立つと、更始帝は配下の李軼を遣り、耿艾もこれに降り済南太守となった。耿純は李軼に諫言することがあり、李軼は耿純が使える人物と思い、鉅鹿の豪族の出であるので騎都尉とし、を帰順させようとした。

大司馬劉秀が河北に渡り邯鄲に至るにあたり、耿純は宋子から陣幕を訪れて謁見し、劉秀は丁重に扱った。他の更始帝の将と異なり、劉秀の兵士の規律が整っているのを見て、耿純は劉秀と結びつこうと貢物を献じた。劉秀は耿純を邯鄲に残して中山に向かったが、更始1年(23年)12月、群雄の王郎が挙兵する。王郎は劉秀に賞金を賭け、耿純らにも追討を掛けるが、耿純は邯鄲を脱出し、宋子へ戻る。劉秀を探して盧奴にいると知ると、従兄弟たちと盧奴に向い、王郎の挙兵を告げた。劉秀は一旦北上して薊に進み、耿純は南に戻る。劉秀は騒乱する薊を南下し、苦難の末、ようやく迎え受けてくれる信都郡に入った。一方、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植らと共に一族郎党を率いて、育県にて劉秀を迎え恭順する。劉秀は耿純を前将軍として侯位を授け、耿訢、耿宿、耿植を偏将軍とした。劉秀らは宋子を降し、耿純らは従いて下曲陽及び中山を攻めた。

戦歴

劉秀は王郎の将李育が立てこもる柏人を攻めるが、長く落せなかった。柏人を攻めるより鉅鹿を攻めるべしという進言に従って、劉秀は鉅鹿を囲むが、太守王饒は固守し、数十日しきりに攻めるも勝てずにいた。耿純は劉秀に「いつまでも王饒の攻撃に執着すると、兵士は疲弊してしまいます。そうではなく、大兵の精鋭を進めで邯鄲を攻めましょう。王郎を誅すれば王饒は戦わずして、自ら投降致しましょう」と進言した。劉秀はこの案を採用し、鄧満を守将として残すと、邯鄲を攻め、ついにはこれを破り、王郎を斬った。

さらに、耿純は劉秀に従いて銅馬を撃った。更始帝軍と正面から戦うことになったため、諸将は劉秀に皇帝への即位を促すが、劉秀はなかなか肯んじない。中山に至って、諸将が再びこの議を上奏するが、やはり劉秀は受けない。諸将が退出しようとしたところ、耿純は進んで諫言し[1]、耿純の意見が甚だ誠実だったので、劉秀は深く感じて「我このことを考えん」と答えた。

後漢の元勲に

建武1年(25年)、光武帝は即位し、耿純は劉永を済陰に撃ち、定陶を降した。光武帝の陣営にいたで耿純の母の兄弟である真定王劉楊[2]は予言書[3]を捏造し、民衆を惑わせようとした。

建武2年(26年)春、光武帝は騎都尉陳副と游撃将軍鄧隆を遣わして劉楊を召し出すが、彼はこれに応じない。そこで、光武帝は耿純に節を持たせて遣わし、各王侯を労いさせ、密かに「劉楊が謁見するようであれば、これを捕えよ」と命じた。結局、耿純は、劉楊が挙兵する前に謀殺した[4]。耿純は京師に帰ると、自分は将となり侯位を受たが、元々は官吏の出であり、天下はあらかた安定してきたといって、自ら文官として地方行政の道を望んだ。光武帝は耿純を東郡太守とする。その時、東郡は治安が悪化していたが、、耿純が就任して数ヶ月にして、盗賊は沈静化した。また、更始帝の東平太守に、泰山済南平原の賊を平らげた。勤めたること4年、取調べていた者が、判決の降る前に自殺した事を罪に問われ、太守を罷免された。

建武6年(30年)、東光侯となり国に就いた。

建武8年(32年)、東郡に盗賊が決起したので、光武帝は耿純を太中大夫の位につけ、大軍とともに東郡に遣わした。すると九千余人の盗賊たちが、耿純が来たと聞くや官軍に降り、大軍は戦わずして帰ってきた。光武帝は耿純にそのまま東郡太守を務めさせ、役人民衆は耿純に服した。

建武13年(37年)、在職のまま死去。は成侯。

人柄・逸話

  • 耿純が薊から南下した劉秀についた時、邯鄲の王郎に降る郡県は多かった。耿純は一族の寝返りを恐れて、耿訢、耿宿を戻らせ、その屋敷を焼かせた。劉秀が耿純にその故を問うと、耿純は答えて「密かに見ますに、明公(劉秀)はたった一台の車で河北に臨み、蓄財もなく、金や物で人を集めるお方ではありませぬ。ただ、恩徳によって民衆を手なずけ、だからこそ民衆は期待している。いま邯鄲は自立し、北部の州はあなたと距離を置いています。私は一族を挙げて帰順したといえども、郎党には決心がついていない者がある事を恐れています。ゆえに屋敷を焼いて、後ろ髪を引かれぬようにしたのです」。劉秀は心打たれて歎息した。
  • 射犬郷に赤眉、青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡の流賊の十余万人が集まった時、劉秀はこれを討たんとし、耿純はその前衛であったので、夜間に賊に攻められた。矢は雨の如く降り、兵士の多くが死傷した。耿純は部隊を統率し、堅く守って動かなかった。次に二千人の決死隊を選び、一緒に強弩を持ってそれぞれ三つ矢をつがえ、枚をふくんで(兵が喋られず、音で気づかれないように)、こっそりと抜け道を通り賊の後ろに出て声を上げさせ、強弩を撃たせたので、賊は驚き逃れようとし、これを追撃して遂には破った。
  • 東郡太守を罷免された後、光武帝が董憲を撃った後の帰途に従って、耿純も行軍していた。隊列が東郡を通りがかると、、民衆の老若数千人が天子の車駕に群がり、「お願いします、耿純様を太守に返してください」と泣きながら訴えた。光武帝はこれを聞いて「耿純は年少にして甲冑をつけて兵士となっただけ。郡を治めてこれほど良く慕われるとは」と言った。
  • 耿純の従兄弟、耿植は輔威将軍と為り武邑侯に封じられ、耿宿は代郡太守と為り遂郷侯に封じられ、耿訢は赤眉将軍と為り著武侯と封じられて、鄧禹に従いて西征するも戦死した。

  1. ^ 天下の兵士将軍たちが、親類縁者を残して、生まれ育った土地を後にして、大王(劉秀)に従軍するのは、大人物の傘下に入って、その偉業を共に実現して、自分たちの志を成し遂げようと望むからです。今、大王の功業は定まり、天命も人望も得ているというのに、大王はぐずぐずと衆人の意向に逆らって御即位なされない。私が恐れるのは、兵士将軍たちがその望みが潰えたと知って、とにかく故郷に帰ろうと思い、進軍の労苦を続けようとは思わなくなることです。大軍が一度解散してしまえば、また合流することは難しいでしょう。ぐずぐずなさらず、民意に逆らってなりません。
  2. ^ 『漢書』の記述に拠る、『後漢書』では劉揚と記述。
  3. ^ 「火徳の九代目(すなわち光武帝)の後、首に瘤ある揚(すなわち劉楊)、主公と為る」
  4. ^ 耿純は役人を百騎ほど連れ、陳副と鄧隆と共に真定の伝舎に留まるが、劉楊は病と称して謁見しない。耿純は劉楊の甥であったので、使者に書を託し、面会するのなら伝舎に出頭するよう伝える。劉楊は子の劉得、弟の新昌侯の劉広・臨邑侯の劉譲と従兄の劉紺、各々兵数万人を擁して伝舎に赴いた。劉楊は多勢を頼みにしたが、耿純は動揺しなかった。劉楊はまず一家・親衛兵を門外に置き、自分は耿純に謁見する。耿純は礼を尽くして接待したため、劉楊は安心し、招きに応じた。劉楊一族の全員が入ったとたん、耿純は内門を閉じて伏兵を繰り出し、劉楊以下すべてを誅殺した。