「倭・高句麗戦争」の版間の差分
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2020年7月12日 (日) 21:35時点における版
倭・高句麗戦争 | |||||||||
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好太王碑の写本 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
高句麗 新羅 |
倭 任那加羅 百済 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
好太王 奈勿尼師今 |
神功皇后? 阿莘王 |
倭・高句麗戦争[1](わ・こうくりせんそう)は、4世紀終わりから5世紀に掛けて朝鮮半島で行われた倭と高句麗の間での戦争。日本書紀、三国史記、好太王碑などに記録されている。
経過
396年、好太王は兵を率いて百済の城々を占領した。兵が首都を包囲するに到り、百済は降伏し高句麗への服従を誓った。好太王は百済王子と貴族子弟を人質と成し、また多数の奴隷を連れて首都へ引き返した。
399年、百済は以前の盟約を破り、倭と同盟を結んだので、好太王は平壌へ侵攻した。其処で、使者としてやって来た新羅の王の謁見を受けた、使者は倭軍が国境を越え新羅と戦闘を行っている窮状を訴え、高句麗に臣従を誓った。好太王はその忠誠心を善として、救援を許した。
400年、高句麗王は新羅を助けるために5万の兵を送った。新羅の首都を包囲していた倭軍は高句麗軍が着くと撤退を開始した。高句麗軍は倭軍を追って任那加羅にある從拔城[2]を攻めると、城の兵民は高句麗に降伏し、攻め落とした。倭軍は塩城を囲んだが、兵民の大半は倭への降伏を拒んだ。倭と同盟を結ぶ安羅軍は新羅城を攻め落とした。
404年、倭の軍は突如帯方郡国境を超え侵攻した。高句麗王は平壌から兵を率いて進み、打ち破った。
注釈
- ^ 富田一路「倭・高句麗戦争」東洋文化(通号41)1998年11月、東洋文化振興会
- ^ 國岡上廣開土境平安好太王碑
参考文献
関連項目
倭・高句麗間の外交使節
この節の加筆が望まれています。 |
- 日本書紀の642年の記事に高句麗使・遣高句麗使についての記述がある。
高句麗使
- 高句麗使は高句麗が倭・日本その他の国に派遣した外交使節の日本における呼び方。
遣高句麗使
- 遣高句麗使は倭・日本が高句麗に派遣した外交使節の日本における呼び方。