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「五虎大将軍」の版間の差分

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趙雲はこのなかで比較的、昇進は遅く、新参の馬超、黄忠らに追い抜かれていた。
趙雲はこのなかで比較的、昇進は遅く、新参の馬超、黄忠らに追い抜かれていた。
; 正史での評価
; 正史での評価
: 『蜀志』「関張馬黄趙伝」の「評」によれば、関羽・張飛は「万人之敵(一人で一万人と戦えるほどの猛者)」。また、『張飛伝』でも、[[程イク|程昱]]らが同様の賞賛をしている。
: 『蜀志』「関張馬黄趙伝」の「評」によれば、関羽・張飛は「万人之敵(一人で一万人と戦えるほどの猛者)」。また、『張飛伝』でも、[[程昱]]らが同様の賞賛をしている。
: 『馬超伝』本文では、馬超は「剛力(の持ち主)」、[[楊阜]]が[[曹操]]に進言した際には、「[[韓信]]・[[英布|黥布]]の武勇」。「評」では「猛勇」。
: 『馬超伝』本文では、馬超は「剛力(の持ち主)」、[[楊阜]]が[[曹操]]に進言した際には、「[[韓信]]・[[英布|黥布]]の武勇」。「評」では「猛勇」。
: 『黄忠伝』本文では、「勇毅冠三軍(黄忠は三軍筆頭の勇者)」。
: 『黄忠伝』本文では、「勇毅冠三軍(黄忠は三軍筆頭の勇者)」。

2020年7月12日 (日) 10:35時点における版

五虎大将軍(ごこだいしょうぐん)は、小説三国志演義』および小説『水滸伝』、またはその派生作品に登場する架空の称号である。

五虎大将(ごこたいしょう)、五虎将軍(ごこしょうぐん)、五虎上将 (ごこじょうしょう)、五虎将(ごこしょう)とも呼ばれる。

三国志演義

五虎を冠した称号は、15世紀にまとめられた小説『三国志演義』においては主に「五虎大将」という呼称で現れ、「五虎上将」、「五虎将」とも別称される。小説としてまとめられる前の講談『三国志平話』では「五虎将軍」、吉川英治の小説では「五虎大将軍」と呼称されている。

五虎大将軍は、関羽張飛馬超黄忠趙雲の5名であり、その筆頭には関羽が任命された。漢中を平定し、漢中王となった劉備が、諸葛亮の進言により、信頼と功績のある武将五名に五虎大将軍の称号を授け、重要な軍事の際にはそれぞれ軍を率いて活躍し、軍事における中心的な役割を果たした。趙雲は他の四名より位が低く、関羽・張飛の2名は劉備の義兄弟であり、黄忠は老将、馬超は新参の武将と、地位・老若・経歴などは選出に問われなかった。

蜀志(三国志正史)での扱い

五虎大将軍の起源は、3世紀に書かれた歴史書『三国志』(「正史」)に遡る。

  1. 5人のが、『蜀志』第6巻 「関張馬黄趙伝」として、1巻にまとめて記述されている。
  2. 関羽、張飛、馬超、黄忠の4人が、それぞれ前将軍右将軍左将軍後将軍に任じられた。

趙雲はこのなかで比較的、昇進は遅く、新参の馬超、黄忠らに追い抜かれていた。

正史での評価
『蜀志』「関張馬黄趙伝」の「評」によれば、関羽・張飛は「万人之敵(一人で一万人と戦えるほどの猛者)」。また、『張飛伝』でも、程昱らが同様の賞賛をしている。
『馬超伝』本文では、馬超は「剛力(の持ち主)」、楊阜曹操に進言した際には、「韓信黥布の武勇」。「評」では「猛勇」。
『黄忠伝』本文では、「勇毅冠三軍(黄忠は三軍筆頭の勇者)」。
趙雲は、『季漢輔臣賛』に「忠義と勇猛さを兼ね備えていた」陳寿の評では黄忠とならび壮猛で軍の爪牙となった、と記述されている。
正史での関羽のプライド(馬超、黄忠に対するもの)
『関羽伝』には、馬超が劉備に下った際、「彼は誰に並ぶ者か?」と手紙で問いかけている。これに対し、諸葛亮が「張飛将軍には匹敵しますが、美髯公(関羽)には及びません」と返信している。関羽は返信に喜び、来客に見せびらかした、とある。
劉備が黄忠を後将軍に任命する際、諸葛亮が「大抜擢であり、関羽将軍が納得しないのではないでしょうか?」と進言している。これに対し、劉備が「私自身が雲長に説明する」と答えている(『黄忠伝』)。

水滸伝

梁山泊の役職。この上の役職は、総頭領と軍師のみで、軍人の中では最高の位である(水滸伝百八星一覧表)。編成は、大刀関勝、豹子頭林冲、霹靂火秦明、双鞭呼延灼、双鎗将董平の5人。

なお、関勝は関羽の子孫という設定である(「大刀」とは、『三国志演義』での関羽の得物である青龍偃月刀を指す。青龍偃月刀を実際に使ったかどうかの記録は残されていないが、大刀の名手であったのは事実)。また、林冲は、得物が蛇矛であり、容貌が「豹頭環眼 燕頷虎鬚」と形容されている点から、張飛を元にしているとされる。

関連項目